2021年 5月号 我、今帰する所なく 孤独にして同伴なし

源信 『往生要集』 

 五月になりました。四月末から始まる連休を「ゴールデンウイーク」と呼んできました。旅行や帰省で交通機関は人であふれていました。ところが今年は東京・大阪の両都市を代表とするコロナ感染者数の激増が全国に広まっており「出歩くな!」という呼びかけが行政から おこなわれています。この連休は これまでと違った連休になり人出は減って感染者数の減少が実現するでしょうか。感染者数は増え、人出も増えているのが現実のようです。
 今月の言葉は源信僧都(げんしんそうず)(924-1017)の『往生要集(おうじょうようしゅう)』からです。ご承知の通り『往生要集(おうじょうようしゅう)』は地獄の様相(ようそう)が詳しく説かれております。地獄など本当は無いのだと考えるようになった現代人には興味を引かれない本だと思います。それなのに、何故そんな本の言葉を引っ張り出したのだと思われるかもわかりません。大阪府は医療崩壊が現実に起こっていると知事が報告しています。感染を抑えるために出歩かないで欲しい という要請が政府からも繰りかえし おこなわれています。毎日のように感染者数が報告されている中ですから人出が減っているかと言えば そうはなっていないことがテレビの繁華街からの中継を見て知らされます。出歩きを自粛して欲しいという要請の中で出歩いている人へのインタビューが放映されていました。口々に「外出自粛はもう限界だ。これ以上は耐えられない」と語っていました。そんな中で思い浮かんできたのが『往生要集(おうじょうようしゅう)』の この言葉でした。いまの都市のコロナの感染状況のなかで人混みの中に出ていけば感染する可能性が高いから外出しない。とはならずに、逆に外出したい要求が自分の中から湧き出てきて自分で自分を押さえられなくて夜の街に居ると話していました。どこか そんな自分を肯定する言葉に聞こえました。

 私が『往生要集(おうじょうようしゅう)』に最初に ふれたのは学生時代です。高橋和巳という作家の「悲心(ひしん)の器(うつわ)」という本の題が『往生要集(おうじょうようしゅう)』からであると知ったときでした。出典を調べてみる気になって図書館で読んでみました。「叫喚(きょうかん)地獄」に落ちた罪人が鬼(閻羅人(えんらにん))を怨(うら)んで「どうして アンタは こんなにも酷(ひど)いことをして私を苦しめるんだ。私は悲心(ひしん)の器(うつわ)だ」と訴(うった)えます。すると鬼は せせら笑って「お前が生前に作った悪業(あくごう)の報(むく)いをうけているだけだ。なんで ワシを怨(うら)んで怒るのだ」と応(こた)えるのです。この鬼の答えの言葉が心に残りました。
 今月の言葉は「阿毘(あび)地獄」の罪人の言葉です。「私には帰るところも無く。独りぼっちで、ともに歩んでくれる人がいない」という苦しみの言葉です。コロナ禍のなかで感染するかもわからない恐れを持ちながら、「外出せずにおれない」という告白はなんでしょうか。
「今 現在 私の居る場所が本当に安住(あんじゅう)できる場所では無かったのだ。帰る所を持っていなかったのだ。語り合うことが落ち着きになり、安らぎになる友 も 実は いなかったのだ」という我が身の居る場所の告白なのでないでしょうか。私が私の居る場所を作っているのです。だが、そこは身と心がバラバラになっているような世界だったのではないでしょうか。

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