金子大栄 『教行信証講話』
今年は猛暑の夏になっていとます。コロナの感染が爆発的に広がり、これまで極めて少数だった島根県、鳥取県でも、そして北陸3県でも驚くような数字になっています。県レベルだけではなくて我が南砺市も これまでに無かった数字が連日報告されています。この3年間は行政が「旅に出よう」「美味しいものを食べに行こう」とキャンペーンを張り始めると感染者数が爆発してきました。これは、きわめて判りやすい原因と結果です。「因果応報」という言葉がありますが、人が動けば感染数が増えるというのはウイルス感染のもっとも基本的な構図で充分体験してきたはずですが、その経験が学習にならないことが この人の世の常のようですね。
人間の歴史とは、この世界から悩みを無くしたい。という人間の願いを実現させようとする努力の積み重ねだった といえるのではないでしょうか。その結果が、私たちが現在享受している この暮らしです。私の小学生のころと書いてみて、それが70年も昔のことだと気づいて驚くのですが、現在の自分の生活と当時の暮らしが大きく変化していることに驚かされてしまいます。その70年の変化は実に大変なものです。では、私たちは幸せになっているのでしょうか。今では車を私のような貧乏人さえ所有しています。食べているものも大きな変化があります。着ているものも当時に比べれば贅沢なものです。衣食住すべてが豊かにはなっています。それなら私たちは幸せになっているはずですよね。
今月の言葉は金子大栄先生の『教行信証講話』(文栄堂 平成4年)からです。「世の中に、悩みの無い人に幸せを感じている人はない」31p とは、悩まないことこそ幸せだ。という現在の社会の常識を覆(くつがえ)すような言葉です。つづいて「幸せというものはどういうものであるかということは、悩める人のみ知っているのである」(32p)という言葉があります。悩みのある人だけが幸せということがわかる。とは悩みの無いことがイコール幸せではないのだ。ということになってきます。そのことを「悩みは結局なくならんが、しかし、悩みのあること そのままの上に救いがある」ということを言っておられます。そのことを私たちに知らせるはたらきを「無碍の光」「念仏の道」「本願の宗教」というのであって、それを「救われざるままの救いというものが一つあるのであります」(33p)と言っておられます。
ここで言われているのは宗教という立場に立って幸せということを言っておられますから、私たちの「悩みの無いことが幸せである」という考え方に なじまないものがあります。世の中にある幸せ観には「宗教の話を聞けばどうにかなるだろう」「今まで何の力でも どうにもならなかったが、宗教の力なら どうにかなるだろう と考えているなら それは間違いでないかと私は思う」(33p)と言われています。私たちの幸せ観、私たちが持っている宗教観が問い直されてくる言葉です。親鸞聖人は私たちの人生を「難度海」という言葉で表しておられます。そのことを忘れて「ボーッと生きている」のが私たちです。しかし、生の中から現れてくる、老と病が そして死ということが、人生が難度海であることをうなずかせてくれます。しかし、難度海を変えて渡りやすい海にしてくれるのが本当の宗教ではないのでしょう。「難度海が難度海のままで意味を持ち、難度海のままで道を開くもの」(p33)が実は本当の意味の宗教であることを教えてくださっているのだと思います。