蓮如 『蓮如上人御一代記聞292 聖典p910』
はや六月になりました。六月を陰暦では水無月というと どこかで習いました。その時梅雨で雨の日ばかりなのに どうして水無しなのか と思いました。そのまま80歳までほったらかしにしていましたが辞書の『大辞林』には「田植えで多くの水を必要とするから」とありました。「なるほど そうなのか」と 今度は「国語大辞典」を見ますと「みなつき」の「な」は「ない」に意識されて「無」の字があてられているが本来は「の」の意で「水の月」「田に水を引くひつようのある月」の意であろうという」とありました。長年の疑問が解消されました。辞書は読むものだと聞いたことがありますが、なるほど そうですね。
今月の言葉は『蓮如上人御一代記聞書』292条からです。全文をあげますと「身あたたか なれば、ねぶりきざし候(そうろ)う。あさましきことなり。その覚悟にて、身をもすずしくもち、眠りをさますべきなり。身、随意(ずいい)なれば、仏法・世法、ともにおこたり、無沙汰・油断あり。此の義、一大事なりと云々」真宗聖典p910
今から50年前のお寺の本堂は、夏は涼しいものの冬は寒い場所でした。現在のような暖房は、まだ有りませんでした。大きな火鉢に炭火があるぐらいでした。「焼け石に水」といいますが 暖房の効果は あがりませんでした。その寒い本堂に分厚いマントやオーバに身をくるんだ お年寄りがたくさん集まっておられました。北陸の寒さをモノともしない生きる姿勢がありました。寒くて眠ればカゼをひくような場で聴聞して
おられたものです。
その冬も、現在では いくつもの石油ストーブが本堂に並ぶようになりました。昔に比べれば聞法の環境は数倍 良くなっているのです。しかし、本堂の人の姿は減り、畳の広さが目立つばかりになっています。「身、随意(ずいい)なれば、仏法・世法、ともにおこたり、無沙汰・油断あり。此の義、一大事なり と云々」であります。娑婆の暮らしが楽になりますと油断や緊張感がなくなってきているのでしょう。現在の私たちは「身、随意(ずいい)」であります。「国語大辞典」では「随意(ずいい)」は「思いのままであること。かって。きまま」とあります。言い直しますと「環境的には十分幸せになっている」のですが「仏法・世法ともに おこたり」ということになっております。「仏法をおこたる」とは、お寺には ご縁が無くなる ということですが、それは私たちの「いのち」が求めている問いをほったらかしのままにして歳を取る と言うことでしょう。ものの世界だけ見ると満たされた世界になっています。ところが、そのものは断捨離(だんしゃり)しなければならないものです。つまり棄てなければならないモノしか見ないで生きているのです。まさに油断しきって人生を歩んでおります。「断捨離(だんしゃり)」ができないものを求めなさい。そういうものに出遇いなさい!と他ならない私たちの「いのち」が もとめているのです。どこか満足していない今の人生です。そう問うてきているのが普通の言葉で言えば宗教なのでしょう。もっと言いきりますと「仏法」と申します。