2022年 9月号 我等のことを見抜き、知り抜いた上で、お説きになられた法というものがある。

平野 修 

 猛暑と豪雨の8月が過ぎていきました。9月は どんな月になるのでしょうか。お盆休みによる人の移動で、休み明けには各県とも凄い数のコロナの感染者が出てしまいました。人間は慣れる ということがあるのですが 無頓着になる ということの
ようですね。
 慣れというものは こわいものです。蓮如上人に「神にも、馴れては、手ですべきことを足で するぞ」真宗聖典p879『蓮如上人御一代記聞書』138条 という言葉がありますが、慣れ ということは本当にすべきことをおろそかにしてしまうということのようです。車の免許を取るときに自動車学校で車の運転に慣れた頃に事故が多いと聞いたように思います。最近は高齢者のペダルの踏み間違いが言われていますが、こちらは慣れの不注意ではなくて高齢に伴う身体の誤作動ということでしょうね。でも、これは年齢とは関係なく おこるようです。人間だから犯すのでしょうね。もっともコンピーターも誤作動してしまいますが。

 人間の上に起こる誤作動、人間の精神の誤作動があると思います。現在その代表がロシアのプーチンの上におこっている判断の誤りではないでしょうか。一人の判断の誤りが数万の人を死なせてしまいます。人間というものを考えさせられます。
 
 今月の言葉は九州大谷短期大学の教授でしたが、わずか52歳で亡くなった平野修先生の著書「親鸞からのメッセージ」①からです。 1998年 法蔵館 「我等のことを見抜き、知り抜いた上で、お説きになられた法というものがある」『親鸞からのメッセージ』① 72頁
こんなことを言っておられます。子どものころに言われたお父さんの言葉に「99人の愚か者に誉められるのを喜んで、一人の賢い者の言うことが聞けない」が分からなかった。 最近ようやく、やっと「そういうことか」と こう思えるようになりました」と語った後に お父さんは「お前は この世の流れ、(この世の流れ というと、名利ということが この世の流れです。)結局そんなものに振り回されて、それ以上のことは耳にしない。「お前は愚かにして、仏の法など耳に出来るようなものでないと」言ってくれていたのです。(71頁) そして「親の恩というのは、そんな形で分かります。自分のことを本当に見抜き、知り抜いた上で教えの言葉を言っていてくれた ということですね。(72頁)
「さらに如来の恩、仏の恩ということを考えてみますと、やはり、そこには我等のことを見抜き、知り抜いた上で、お説きになられた法というものがある。それはどんな法であるか と言いますと 念仏往生の教え なんですね。「念仏して浄土に生まれよ」というこの教えは、自分のことを見抜き、知り抜いた上で用意されたものである。この我がために お説きになられた法は、念仏往生の教えであることを、全身をもって知ることが出来た ということですね。これが 仏の恩が深い という意味なんですね。(72頁) また「聖人のつねのおおせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」の言葉が「私を見抜いていてくださる法を」聖人が語ってくださっていると記されています。