2022年10月号 大悲心に目覚める ということは、自分のあり方を初めて深く悲しむ ということです。

宮城 顗

 9月には巨大台風が連続して日本列島を南から北に ノロノロと縦断して各地に大きな被害をもたらしました。さらに、9月末には静岡県が記録的短時間大雨に見舞われました。自然災害の多い年になっています。北陸は今年の米の収穫が ほぼ終わり 秋の気配がただよい始めています。この時期になると あちらこちらで報恩講が勤まり始めます。コロナ禍で2年間お勤めだけで終わっていた報恩講ですが 法話を含めた従来の形でお勤めしたい というお寺の動きになってきています。しかし、まだまだ従来の形には戻ることはできません。日数を減らしたり、半日だけにして勤めようという状態です。

 報恩講の お勤めは『正像末和讃』の「如来大悲の恩徳は」という『恩徳讃』で締めくくられます。11月28日の本願寺の御影堂に座り、ご満座の坂東節のお勤めの最後にあの御和讃を聞かせていただいておりますと特別の感慨がわいてまいります。あの無音の数秒間が持っている力があります。
 親鸞聖人への報恩の集いが「報恩講」です。親鸞聖人からいただいたことへの報恩の集いです。お礼もうしあげるのですから、これをいただいた ということがあるわけです。そのお礼を申し上げなければならないこと とは、私たちの この一生を歩み通すことのできる道を示していただけた ということなのではないでしょうか。人生は一人ひとり違うものです。しかし、だれもが等しく歩むことのできる道をしめしていただいているのでしょう。人生は千差万別ですが、歩む道は一つの道を示していただいているのだ といえるでしょう。親鸞聖人は こう教えてくださっています。その道は いただいている道なのだ。私たちが自分の力でつける道ではないのだよ と。このことを「回向」という言葉で、つまり いただいた道なのだ と教えてくださっております。そのことをまた「願力回向」という言葉で教えていてくださっています。
 今月の言葉は宮城顗(しずか)先生の「私に わかる浄土真宗」からです。小松教務所刊2011年「大悲心に目覚めるということは、自分のあり方を初めて深く悲しむ ということです。」 真宗門徒は だれでも知っている「如来大悲の恩徳は」の「大悲心」を宮城先生は私たちは「どれだけ呼びかけても少しも変わらないのですが、そういう存在を深く受け止めてくださるのです。これが大悲心です。そのあり方を悲しみ、しかし、その存在は どこまでも受け止めていかれるのです。どこまでも厳しく私のありかたを否定しながら、しかし、その私を受け止めていってくださる、そこに大悲心ということがあります」124p「だから 大悲心に目覚める ということは 自分の在り方を初めて深く悲しむ ということです。」と言っておられます。この宮城先生の言葉は先ほどから書いてまいりました「恩徳讃」の響きをこの身にいただく道を教えてくださっている言葉だと思います。