2022年11月号 この いのち なんのために だれのために 人間を超えた問い 如来さまの問い かたじけなし 大悲招喚の勅命

浅田正作『骨道を行く』

 飛び去る鳥のように通り過ぎてしまった10月でした。今年も今月を含めて残りは2ヶ月だけになっています。皆さんの朝夕のお勤めが終わりに近くなったとき点したローソクが短くなっています。その残り少なくなっていくローソクを見ながら、わが身のようだ と感じている高齢者の一員である私です。9月からコロナの感染数が全国的に減り始めてきたために諸寺の報恩講が かなり復活してまいりました。北陸の秋は やはり寒さが深まっていく、そのなかで報恩講が勤まらないと秋がしっくりこないように思います。

 今月の言葉は松任の浅田正作さんの詩集『骨道を行く』からです。お亡くなりになってからも詩集を紐解きますと浅田さんのお姿が浮かんでまいります。それは本誓寺さんの書院やお御堂に座って聞法しておられる浅田さんです。詩集に「人間の自由意思が たったひとつ 認められている それは 聞くということだ これが 如来よりたまわった たったひとつの 自由意思」と記しておられますが、また「死ぬことが 
情けないのではない 空しく終わる人生が やりきれないのだ」とも記されています。
(74頁)

 3年間のコロナ禍がもたらしたもので見えていないことですが寺離れがあるようです。毎月のお参りを休んでいるうちにお寺とのお付き合いのないことが日常化してしまつた檀家さんとの関係修復に苦労しておられる住職さんの悩みを聞かされます。話を聞かせてもらいながら「このいのち なんのために だれのために 人間を超えた問い 如来さまの問い かたじけなし 大悲招喚の勅命」という今月の巻頭言である浅田さんの詩が浮かんできました。現在の私たちは この「如来様の問い」が聞こえていないのではないのでしょうか。「勅命」という語は天皇の命令という明治憲法における天皇の命令を思って唐突な感がするかもわかりません。しかし、浅田さんが言っておられるのは「大悲招喚の勅命」です。主語は「大悲招喚」ですから 如来からの拒否することのできない呼び掛け ということでしょう。つまり 私たちの思いで拒否することができない如来からの問いかけ ということでしょう。※参考「また帰命と もうすは、如来の勅命に したがうこころなり」と帰命というこころだ と親鸞聖人は言っておられます。(『尊号真像銘文』真宗聖典p518)
 実際に八十歳になってみますと「この いのち なんのために だれのために」という問い が、ごく自然に聞こえてきます。「空しく終わる人生」でありたくない。という浅田さんが言い当てていてくださる思いが私にもあるのです。「聞思」が私たちの人生の本当に ただ一つの課題なのでしょう。教願寺の本堂には「聞思」と「敬虔」いう金子大栄先生の二枚の額が正面に掲げられています。お寺の本堂とは敬虔に聞思する場所なのでしょう。そのような場所を共有することが住職と真宗門徒に共通する課題なのでしょう。