大江憲成 前九州大谷短期大学学長
今年も最後の月になりました。年齢と共に時間の過ぎるスピードが速くなってなにもしないまま一日が終わり、一ヶ月が過ぎ、一年が去っていきます。「一生すぎやすし」という言葉に記憶がありませんでしょうか?「白骨の御文」の言葉です。「一生すぎやすし。いまに いたりて たれか百年の形体をたもつべきや。我や さき、人や さき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりも しげし と いえり。」とあります。余談ですが、「と いえり」とは「このように言った人があります」ということです。それは隠岐の島に流され、その島で亡くなった後鳥羽上皇の筆になる『無常講式』から引かれているのです。そちらでは「三界無常なり。古いにしえより いまだ萬歳の人身あることを聞かず、一生過ぎやすし。今に在ありて誰か百年の形體(ぎょうたい)を保たん」「實(まこと)に、我は さき 人や さき、今日も知らず明日とも知らず。おくれ先だつ人、本の滴(しずく)、末の露(つゆ)よりも繁し」と記されています。法然上人、親鸞聖人を流罪にした その人が承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れて隠岐の島に流されて孤独の中で記された文章なのです。権力者が権力に溺れて、今度は別の権力によって島に閉じ込められて そこで死ななければならなくなる というのが人間の世界です。その後鳥羽天皇が書いた文章を蓮如上人が引用したものが「白骨の御文」ですが 令和の今も読む人の心を動かしていることに人間の いのちが持っている はたらきというか 課題ということを感じさせられます。
「人間には、自分自身に対して、ある大切な生き方を促(うなが)す はたらきがある。如来の本願です。」出典は『人生を丁寧に生きる』大江憲成 同朋選書44 東本願寺出版部 大江憲成先生は昭和19年生まれ。平成20年から九州大谷短期大学の学長を務められました。
私たちは「いのち」を「私のいのち」と言っていますが、私が私有することができないものです。わたしの いのちでありながら 決して私の思い通りになりません。むしろ私たちは 私の いのち そのもの から問われているのでしょう。「私たちは問われている存在なのです」とはオーストリアのフランクル(1905-1997)の言葉です。ナチスによって強制収容場に閉じ込められ、いつ命を奪われるかも判らない状況の中で、人生に対して何かを期待するのではなく、「自分は人生から何を期待されているか」という視点へと、生きる意味への問いを180度の方向転換させる言葉なのです。大江先生は「人間には、自分自身に対して、ある大切な生き方を促(うなが)すはたらきがある。如来の本願です」と、問いの源(みなもと)を「如来の本願」と言い現わしてくださっています。
「本願とは、私たちへの促し」だと言ってくださっていますが、「促し」とは「せきたてて すすめること」と『日本国語大辞典』にあります。私たちに、大切な生き方とは どう生きることか?と自ら問うことを「せきたてて すすめてくださる」のが本願なのですね。これまでは目にすることの無かった「本願」ということを受け取る言葉ですね。