2023年 1月号 信仰問題は一生の問題である。

曽我量深

 2023年という年をむかえました。まだ経験したことのない新しい年が始まりました。昨年の暮れに雪が降りました。北陸一帯に大雪に対する警報が出ていましたが、我々高齢者には大雪には何もできません。できることと言えば車が動ける間に食料を買い込むぐらいです。雪雲の動きの気まぐれ からか 富山県は大雪にはなりませんでした。小さい とはいえ 我が寺の本堂前や庫裏の前の雪かきをしなければなりません。作業しながら昨年よりも雪に手こずっている自分に気づきました。昨年は運べた量の雪を移動させることができないのです。スノーダンプやスコップなどの道具は昨年のままですが 雪を動かそうとしても動かないのです。雪が否応なしに教えてくれた老化している身の事実でした

 私たち人間が誰一人の例外もなく自分の人生で味あわなければならない事実を仏教では「四苦」と教えてくれています。「生老病死」の四つです。私たちは長生きしたいのです。でも長生きするということは 老化する ということです。様々な人間の能力が衰えていきます。無生物の道具でさえも老化します。買い換えしなければなりません。しかし、人間の身体は買い換え できません。老病死していくのが自然の姿です。80歳の現実は メガネなしでは活字が読めず、他人様の声が聞こえず、今 読んだ本の中身が記憶に残りません。認知症という言葉が身に迫ってきます。

 平均寿命という数字があります。2022年の厚生省発表によりますと令和3年の平均寿命は男性81.47歳 女性87.57歳だったそうです。そして南砺市の65歳以上の高齢者率が39.2パーセントなのです。このように長生きさせてもらっているのですが、その長生きしている人の人生のなかで、その意味を十分に受け取ることができているのでしょうか。
 「信仰問題は一生の問題である」という「一生の問題」つまり「一生の課題」をどこかで見失っているのが現在の日本人に共通している問題ではないでしょうか。多数の人たちが もっている人生の意味ということが物質的な豊かさの追求に いつのまにかなってしまっているのではないでしょうか。自然を破壊しながら物質的な満足を求めることが人生の意味になっているように思えてなりません。でも、これは狭い人生理解だと思います。
 今月の言葉は曽我量深先生の『親鸞との対話』弥生書房1982年 からです。40年前の本です。「信仰問題は一生の問題である。親鸞聖人の思召(おぼしめ)しを一生かかっても解らぬが、私は出来るだけ聖人の思召しを自分に領解してゆきたいという願いをもっているだけ。なんとかして自分の身と心を以(もっ)て聖人の思召(おぼしめ)しを自分自身の上に明らかにしたい という願いをもっているだけである」p104 という一文からです。(アンダーラインは筆者)
 親鸞聖人という方は私たちの関心である地位・財産・名誉・権力のすべてから遠いところで生きられた方です。しかし、その没後750年もの間も日本人に 生きる ということの本当の意味を目覚めさせてくださる方なのでしょう。私たちの持っている人生観では見通すことのできない世界を求めさせるのが宗教であり、「後生」ということも 実は 私たちの目では見通せないけれども、別の目では見えてくる人生の姿なのではないでしょうか。