土井善晴
寒さは厳しかったのですが、今年の富山県の平野部の冬は雪が少なくて老体にとっては ありがたいことでした。弥生3月と思うだけで なにやら明るい気持ちに させられます。どうも自分の気持ちで ありながら外からの はたらきかけが無いと自分の気持ちの切り替えも出来ないのですね。冬の雪に閉ざされた寒さの厳しい何ヶ月間を私たちの先祖は聞法の季節として過ごして まいりました。それは私の記憶の中にも残っております。その記憶の中の世界が現在では すっかり失われてきております。
今月の言葉は お父さんの土井勝さんと ともに よく知られている土井善晴さんの言葉です。料理人さんの言葉ですが、現在の日本人の意識の中に なくなってしまっている大切なことを呼び覚ましてくれている言葉だと聞いております。出典は「まねしたくなる土井家の家ごはん」(講談社+α文庫)です。「ごはん」からか?と不審に思われるかもしれませんが食べ物は命の源です。食べ物によって私たちの命は支えられているのです。テレビの料理番組は へたをするとウマいモノ作りの方法になりますが、料理する人が、その食材をどう取り扱っているかを見ていると、その人がどんなモノの考え方をしているか がわかるような気がします。丁寧に あつかっているか、ぞんざいに扱っているか で 食 ということをどう考えているかが解るように思います。もう少し土井さんの言葉を引用します。「川の水は、肥沃な黒い土と同じように生命の宝庫なのです。川は海に流れ込みます。すると海には、微生物やミネラルを栄養分とする動物性のプランクトンがたくさん現れます。このプランクトンを餌にするのが貝や小さなえびの子で河口には それらを求めて磯魚が集まります。さらに こうした小さな魚を餌にするのが、夏に旬を迎える はも や すずき といった魚なのです。私たちの目には見えないけれど、海の中も四季折々に景色を壮大に変えていきます。こうした食物連鎖の始まりは山や森から やってくるのです。」25p
私たちの命は土井さんが言われるように山や川の健康な はたらきによって支えられているのです。そのことが見えなくなっているのが現在の私たちの目でないでしょうか。人によっては「そんなことが佛教と どう関係があるのだ」というかもしれませんが、私の「いのち」ということが本当に わかることなしに 佛教が解る ということはないのでしょう。
私の命を私有していると、命が小さいものになります。見えない生物やミネラルによって私の命が支えられている と解ってくると、私の命が広々とした世界の中にあると 明るいもの に感じられてこないでしょうか。無量寿の中に生かされている私ということを知らせてもらえるのでないでしょうか。金子大栄先生に次のような言葉があります。「世界に何十億の人があっても、そのすべての人に普遍し共通する潜在意識がある。そして、それが宗教を求める心である」『聞思室日記』続々146p だれでも頷くことのできる世界は広いのです。