2023年 5月号 浄土は生と死の山坂を超えぬと無い。その山坂を超えてある。

曽我量深 『曽我量深講義集』第1巻

 突然に夏日になったり、暖房が欲しくなったりと、気温変化の激しい四月でした。大型連休で始まる五月になりました。今年は砺波市のチューリップフェアの期間中に花が持つか心配なようです。これは、人間は、地球に住まわしてもらっているのだぞ。と知らされているように思います。「汝の分限を知れ!」と呼び掛けられているのではないでしょうか。

 思いもかけず80歳という年齢まで生きさせてもらえました。幼児期に医師から「この子は あきらめなさい」と両親は言われた という虚弱児が、こんなに長い年月を生きさせていただきました。子どもの頃に元気だった友人が何人も先に亡くなっています。生きる ということの不思議さを感じさせられています。耳と目は不自由になっていますが、こうして寺報を綴ることができることも、思えば不思議な力をいただけていることだと感じています。

 こんな私と同じように長生きしている人たちが沢山おられます。「老人」と呼ばれております。どこか「いらんもの」というニュアンスがこめられているように感じられます。その老人が忘れていることがある。と先月の寺報で養老孟司さんの「現代人とは、自分は死なない、と思っている人のことなんです。」という言葉を紹介させていただきました。本当にそのとおりだと思ったからなのです。死を忘れたとき何を忘れるか というと浄土を忘れます。浄土を忘れるということは、求めることを忘れることだ と実感させられます。どんなことか と言いますと「仏法を求めない」ということです。「還るところ」あるいは「帰るところ」でしょうか。その「浄土を願う」という人間の いとなみが現在社会の生活の中から抜け落ちているのでないのかと感じています。「生死の苦海ほとりなし」(高僧和讃 龍樹)ということを感じない老年期は、結構なことなのですが「浄土をうたがう衆生をば 無眼人とぞ なづけたる 無耳人とぞ のべたまう」(浄土和讃)という和讃の言葉が指し示している社会だと思います。

 曽我先生の言葉に「自然科学を信じている人が西方極楽は信ぜられぬと云うが苛立っている人には親の心は分からぬ。有を離れ、無を離れ、生の山を越え、死の谷を渡って、そこに極楽がある。」(中略)「極楽が有るか、無いか、仏があるか、ないか、そんなとは問題でない。現代の知識階級は仏は分かるが 浄土は分からぬ と云う。浄土は生と死の山坂を超えぬと無い。その山坂を超えてある。それを超えぬところを辺地懈慢界(へんじけまんがい)と云う。真実生死を超えたところに唯仏(ゆいぶつ)与仏(よぶつ)の知見が有る」(『本願成就』曽我量深講義集
第1巻227p)とあります。
 長生きは、科学文明、とりわけ医学の発達のおかげをうけているものです。しかし、それは大切なことが見えない境涯でもあるぞ、と言われています。「無眼人、無耳人」という言葉が示している人間の姿でしょう。「懈慢」と言う語も重く響く言葉です。傲慢(ごうまん)なのですね。