金子大栄 口語訳『教行信証』
気がつけば今年も はや半分が過ぎていこうとしています。まさに「光陰矢の如し」であります。ほかに「光陰人を待たず」とか「光陰一度去って また還らず」とも言われています。忸怩(じくじ)たる思いであります。辞書で確かめてみますと忸怩(じくじ)とは「自分の行いなどについて、自分で恥ずかしく思うさま」とあります。(日本国語大辞典)ただ すぎた年月 と思っていますが、実は自分の思いで生きてきたのであります。恥ずかしさと悲しみがあります。そこには、「愚か」という字が山積みになっているのであります。
調べたわけではありませんが、当教願寺は、おそらく日本一貧乏な寺なんだろうと思っています。でも、お寺が はたすべき本来の使命である「聞法の道場」としての役割は、それなりに果たせているのではないか、と 内外見ともに 掘っ立て小屋 の たたずまいですが「ご苦労様」と ねぎらいたいような気持であります。かつて、当寺に立ち寄ってくださったロンドン大学の教授が、「これまで見てきた日本の有名寺院は、伽藍だけだった。ここは生きている。」と言ってくださったのですが、なによりも嬉しく有り難い言葉でした。
親鸞聖人の生涯を尽くして著してくださったのが『顕浄土真実教行証文類』です。略して『教行信証』と申していますが、わが身が80歳を超えて思いますのは、死ぬまでに全巻に目を通しておきたいということです。遅々として進まない課題ですが、お世話になっていますのが、この金子先生の『口語訳 教行信証』です。「今月の言葉」の前後をご紹介します。
「われらと佛(ぶつ)とは念仏で結ばれるのではない。念仏に於いて佛(ぶつ)は佛(ぶつ)として現れ、われらも自身を見出すのである。それは恰(あたか)も子に親と呼ばれることと なりて親となるが ごときものであろうか。されば念仏に よらないで観られた佛(ぶつ)は真の佛(ぶつ)ではない。」(初版116p)
すこし、エッと思われる言葉から はじまっています。「われらと佛とは念仏で結ばれるのではない」という表現にビックリされる方もおられると思います。「念仏が私と仏さんをつないでくれるのだ」という感覚は だれでも持っていると思います。でも そこで現れてくる仏は、私たちの思いが作る仏さんです。私の思いによって仏さんに出会おうとするかぎりは私たちの思いが作る仏さんです。「念仏に於いて佛は佛として現れ、われらも自身を見出すのである」。の「念仏」は仏様の名告(なのり)としての念仏です。つまり南無阿弥陀仏と名告ってくださっている仏様、これを「名号」と言っていますが、仏様自ら名のりです。私たちの前に名乗り出てくださる仏さまの その名のりの働きによって、私たちは本当の自分の姿に出会っていくのです。自分の力で知った自分でなく、仏様の働きの中で知らせていただいた自分です。何を知らせていただいたか と言えば、「念仏もうす」ほかない自分なのですが それは我が力によって ではなく、ただ名号の、つまり南無阿弥陀仏の働きによってなのです。