2023年 8月号 この度なの生命は二度と持つとはできない。なんとなれば、この度の生命は浄土を開くという大きな異義をたたえているところの生命である。

蓬茨祖運

 豪雨と猛暑の七月でした。 連日熱中症の警報が でている今年の夏です。これから台風のシーズンになりますが どうなるでしょうか。現在の私たちが居る世界を娑婆と表現してきました。「娑婆だからね」と言ったあとに「しかたないわ」という言葉がつづいて使われてきました。娑婆とはインドの「サーハ」が元の言葉です。インドから中国に仏教が伝えられましたが中国には仮名がありません。サーハ(sahā)の音を漢字で娑婆と表しました。忍土(にんど)、堪忍(かんにん)、能忍(のうにん)などと訳されています。さまざまな煩悩から脱することができない衆生が、苦しみに耐えて生きているところ。とあります。私たちの言葉で言えば 「思いどおりにならない世界」になるでしょうか。

 私たちは自分の葬式が何年の何月何日何時から行われるということを誰も知りません。知らないから平気で生きておれるのでしょう。演説中に撃たれた総理大臣も、銃撃されるなど思いもしていなかったことでしょう。警備の警察官も そうだったはずです。私たちは一秒後どうなるか、わが身のことでありながら予測できません。それが私たちの身の事実です。それなのに来年の約束をしています。「我やさき、人やさき、
きょうとも しらず、あす とも しらず」の「白骨の御文」の言葉が どこかから聞こえてきます。

 今月の言葉は蓬茨(ほうし)祖運(そうん)先生 (1908~1988 教学研究所所長・九州大谷短期大学学長等を歴任)の『聞思の人⑧蓬茨祖運(下)』大谷派出版部2013年発行 からです。
蓬茨先生は こう言っておられます。「否(いや)でも応でも、私たちの人生は、事実としては苦しみ多い世界に生まれてきた ということを認めねばならない。しかし、これを認めるのには相当 勇気がいるのです。これを認める ということは、我々の力では なかなか認められません。それを普通は あきらめる と いっております。あきらめる と いっているのは、あれは あきらめられない ということをだいたい いっているのです」(25p) さらに「あきらめきれない ということは、我々は自分の力では、苦しみの世界である ということをなかなか容易に認めることができない ということです。」さらに「なかなか認めたがらない」とも いっておられます。(38p) 大切なことをこう言っておられます。 「しかし、この度の生命は二度と持つことができない。なんとなれば、この度の生命は浄土を開く という大きな意義をたたえているところの生命である」(38p) 私たちが私たちの思いに立つかぎりは、この世は思いどおりにならない娑婆世界です。しかし、その娑婆を意味ある世界に転じさせる はたらきがあります。この人生が浄土に向かって歩む道となるのです。蓬茨先生は「この度の命は浄土を開くという大きな意義をたたえているところの生命である」と教えていてくださっています。