2023年11月号 仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり、自己をわするるといふは、万法に証せらるゝなり。

道元

 いつ涼しい秋になるのかと思っていましたが、10月の後半には涼しさというより寒さを感じるようになってきました。もう暖房がほしくなっています。つくづく身勝手なものだと感じさせられます。今現在を受け取ることが出来ずに、今に対する不満しか思い浮かばないのであります。

 今月の言葉は永平寺の開祖の道元さまの『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の巻頭の「現成公按(げんじょうこうあん)」からです。テキストは岩波の日本思想体系の『道元 上』36頁を使用しました。

 道元さんは禅の方ですから私たちの浄土真宗の用語とは少し ちがいがあります。
しかし、人間が仏法を学ぶということの根本は同じであるはずです。そこに立って道元様の言葉を味わっていただきたいと思います。最近思うのですが お念仏の教えを学ぶとは別の言葉で言えば仏道を学ぶことであり、それは、この私たちの人生を人間の眼だけで眺めて生きて終わっていくだけでなく、人生が仏法に出遇う場になるということがなければ、どれだけ長く生きても、狭くて浅い、ただ長いだけの人生に おわるのではないのだろうかと フト 思ったことがあったのです。日本という国の人口構成は10人に1人は80歳以上の高齢者だということが先日発表されました。その高齢者の一人であるご婦人から「この福野の町は80歳90歳の年寄りばかりだが、みんな「サビシイ、サビシイ」と言っているのよ」と聞かされたのです。「幸い わたしは ここに出会えたけれど、どうして サビシイと言っている人が来ないのだろうね」と つぶやいておられました。その時に「仏道をならう というは 自己をならうなり」という巻頭の言葉が うかんできたのです。「自己をならう」ことのない長い人生は 自己がわからないまま老いてしまっているのでないでしょうか。それが寂しさの中身だと思います。
「自己をならうというは自己をわするるなり」とは 現在の言葉づかいそのままではわからない言葉です。ここで言われている自己とは、この私だ と思い込んでいる思い込みの私でしょう。その思い込んでいる私 から 脱(はな)なれる ということを言っているのでしょう。私の 思い込みの私 ではなく、仏法の働き つまり 真実があきらかにしてくださる自己、つまり 私に出遇う ということでしょう。道元様は こうも言っておられます。「自己を はこびて 万法を修するを迷いとす、万法 すすみて自己を修証するは さとりなり」(同書35頁)と。人間が人間の思いで仏法を学ぼうとすることは迷いにおちいる。そうではなくて仏法があきらかにしてくださる私に出遇っていくのだ。と言っておられるのでしょう。私たちは「如来より たまわりたる信心」(歎異抄)と教えていただいています。如来の はたらきが私たちに あきらかにしてくださっているのが信心であって、私の力で あきらかにしているのではない というのです。それを廻向とも教えていただいています。