2023年12月号 信仰が本当に生きておるならば、かならず それは新しい生活を生み出す。

和田 稠 『真宗門徒』より

 2023年の暦も最後の一枚になってしまいました。今年は猛暑の日が多くて暑さに悩まされました。10月になっても、なお夏日がありました。いつになったら涼しくなるだろうと思っているうちに、こんどは寒くなってしまいました。はや師走となっております。歳をとるにつれて時間の流れが速くなってくるような気がします。これはまぎれもなくお迎えが超特急で近づいているということでしょうね。11月は報恩講の月でしたが「聖人弘長(こうちょう)二歳 壬(みずのえ)戌(いぬ) 仲冬(ちゅうとう)下旬の候(こう)より、いささか不例(ふれい)の気まします。自爾(それより)以来(このかた)、口に世事(せじ)をまじえず、ただ仏恩(ぶっとん)の ふかきことをのぶ。声に余言(よごん)をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。しこうして同第八日午時(うまのとき)、頭(づ)北(ほく)面(めん)西(さい)右(う)脇(きょう)に臥(ふ)し給(たま)いて、ついに念仏の息 たえ ましまし おわりぬ。時に、頽齢(たいれい)九旬に満ちたまう。」真宗聖典736p 『御伝鈔の「洛陽(らくよう)遷化(せんげ)」聖人ご臨終の段が寒さが厳しくなると、しみじみと聞こえてまいります。
 今月の言葉は 1916年-2006年 石川県加賀市南郷町(大聖寺)の浄泉寺の住職や大聖寺高校の校長を勤められた和田稠(しげし)先生の『真宗門徒』東本願寺出版部 からいただいています。

 小さな私たちの町、福野にも いくつもの真宗の お寺があります。ということは真宗門徒の家が軒を並べていると言うこともできると思います。それならば真宗門徒である証(あかし)として聞法のために お寺に足を運ぶ人の姿が多いのか というと そうではならないようです。

真宗の門徒であり、月参りに毎月住職さんが来ておられるにもかかわらず、そののなかに生活に真宗門徒としての証(あかし)があるのか どうかを感じとることがむつかしいのです。それは生活のなかで具体的になっている信心ということが、とても薄いということではないでしょうか。別の言葉でいえば念仏の生活です。
 「信仰が本当に生きておるならば、かならず それは新しい生活を生み出す。」という、和田先生の言葉には、高齢者と言われる私たちが日ごろ お寺で耳に親しんでいる言葉は含まれていません。耳慣れしていないと言ってもいいかもしれません。そういう私たちに「あなたの生活には真宗門徒だという なにか特徴的なことがありますか?」なにか、はっきりした自覚した生活がありますか?と問われているのだと受け止めてみたらどうでしょうか。「どうも、よわったなー」と応(こた)えざるを得ないのではないでしょうか。では、「それは なんだろうか?」とあらためて考えてみたらどうでしょうか。お内仏の引継ぎが出来なくなり、仏壇が売りに出されていることがテレビで報じられていました。海外に渡った仏壇は貴重品入れ、高級装身具入れになっていました。もはや礼拝とは無縁の漆塗りで金色の装飾がついた高級なケースに変わっていました。これは、朝に、夕に礼拝する生活を多くの人が失ってしまい、念仏の無い暮らしをしていることの現われなのでしょう。「南無阿弥陀仏」を称えることのなくなった高齢者の口から今もれ出ているのは「サビシイ・サビシイ」だと聞かさせました。信仰が生み出す新しい生活とは南無阿弥陀仏と合掌できる心が見出す生活の意味ということでしょう。本当の人間の生活をとりもどす場がお内仏であり、仏さまに礼拝することが出来ることであり、南無阿弥陀仏が口から もれ出てくださる日々の生活が「新しい生活」なのでしょう。