2024年 11月号 余命すくなくなり この 日のひかりが しみじみ この ふく風が しみじみ この生き死にの波が しずかに うねりながら ひかりながら 「余命」

榎本栄一 念仏のうた『常照我』より

 11月は真宗門徒にとっては親鸞聖人の亡くなられた月として、特別な思いで この月をむかえてきました。報恩講が勤まる京都の本山には全国からお参りするために上洛する ということが おこなわれてきました。(西本願寺では1月に勤められます。)
「御正忌(ごしょうき)」という一般では なじみのない言葉で親鸞聖人の命日に、その お徳を偲んできたのです。

 私は、とうとう今年は82歳になってしまいました。自分でも驚いております。子供のころに70歳を越えている人をどんなふうに見ていたかを、今思い返します。幼い子から見ると現在の私の姿も恐ろしいようなものなんでしょうね。私が中学生のころ、隣の3歳ぐらいの坊やが、なついてくれていて よく遊びに来ていましたが、ある日 祖父が顔を出した途端、その子はギャーと泣きだして飛んで家に帰ってしまいました。お母ちゃんに「モーが出た」と報告したそうです。モーとは お化けなんです。祖父は、まだ70代だったと思います。私も幼い子の目から見るとモーなのかな と苦笑いをしてしまいます。

 以前から好きだった榎本栄一さんの詩集『常照我』昭和62年樹心社を書棚から取り出して読んでみました。すると付箋や、赤ペンでチェックしていないのに、この詩が心に響いて まいりました。まさに「余命すくなくなり」が我が身の事実となっている今だからこそ響いてきた言葉がなんです。でも、老人になり、余命わずかになっている、その事実を事実と受け取ることができていないのです。親鸞聖人の お手紙の中の「うかれたまいたるひとなり」の言葉の通りの自分が うかんでまいりました。
(末灯鈔6)旧版 真宗聖典p603 新版 真宗聖典p739

 「余命すくなくなり この 日のひかりが しみじみ この ふく風が しみじみ この生き死にの 波 が しずかに うねりながら ひかりながら」この詩のように毎日をしみじみと味わい、受け止めることを忘れきっているのですが、これは、残り少ないのだから大切にしていくべきことに気づけず、忘れているのが わが身なのであります。毎年決まっている約束の日程が終わったときに「また、来年もお願いします」と言っていただいた時に返事に こまっております。「まだ娑婆におりましたら」と返事しているのですが、なんだか、来年も まだ居そうな気がしています。日の光、吹く風を、そして、この残り少ない時間を大切に、今をしみじみと味わえるようになりたい と思わせてもらえた詩の言葉です。先の親鸞聖人の言葉の前には「信心の さだまらぬ ひと は」とあります。私たちの命の背景にある大きな世界に気が付くことが余命の時間の、意味を持った過ごし方なのではないのでしょうか。