伊東慧明
年が新たまりました。新しい年になったと言いますが我々が、この世で過ごす年月の方 は 新しくなるわけではなく、経過し、古くなっていくだけです。人生は、一人ひとりが全く個別の時間をあたえられているのです。昨秋に、福知山にいる私よりも年若い友人が、訪ねていくと言ってくれていたのに、奥さんが脳出血で緊急搬送されて行けなくなった という連絡をもらいました。幸い現在はリハビリできるようになり、動く右手でキーをたたいて心境を伝えてくれています。私自身も昨年は「ガンかも わかりません」から、「まぎれもなくガンです」に かわりました。命とは、生きるという中(うち)に死をふくんでいるものだ と、あらためて頷(うなず)かされました。仏教が人間とは老病死していくもの(存在)だ と教えてくれておりました。私より8歳も若い友人が3つものガンを次々と経験しながら「ガンで よかったんですよ。準備ができます」と語ってくれましたが、そのように語ることができる心の開けは、聞法するという生活の中から身に着いてくる はたらき なのですね。年齢は下なのですが 念仏が開いてくれる生活 には、このような心境の開けがあるのですね。
今月の言葉は『歎異抄の世界』の著者の伊東慧明先生の言葉です。この本は三重県の松阪市の山のなかのお寺で伊東先生が『歎異抄』を講義された記録です。会を主催しておられたのは松井健一先生です。松井先生にも歎異抄の著書があります。
『歎異抄の世界』 全5巻 伊東慧明著 文栄堂 昭和41年~43年 (絶版)
今月の巻頭の言葉に続いて「われわれは、たしかに生きているのだし、生きていかねばならない。けれども「おれは、生きているんだ」と頑張る必要のない世界がある。それがナムアミダ仏の世界です。そこに かえれば わたしたちは心から安らぐことができる。生かされて生きていく という安心がある。そこから、わたしたちの人生が本当に新しく出発するのである、そういう生活が、アミダの「すくい」によってひらけるのである、と、このように歎異抄は語っているのであります。(1巻103頁)
私の中学の同級の女性ですが、ガンになり亡くなりましたが、体質的に抗がん剤が合わず 苦しいばかりなので、自宅に戻っているから見舞いに行け と他の同級生からいわれ 見舞いに行きました。彼女は「この病気になってから夜に布団に入る時「ああ今日も一日生きさせていただいたなあ。と思う。朝に目が覚めると、ああ、また今日一日生きさせていただけるのだと思う。そうすると手がひとりでにこうなる」と合掌した手を見せてくれました。伊東先生の言葉のままのすがたですね。伊東先生は「やすらぐ」という言葉を使っておられます。安らげる世界は南無阿弥陀仏が開いてくださる世界なのですね。