2024年 10月号 無限の側(がわ)から言葉となって衆生を包(つつ)んだのが南無阿弥陀仏です。

松原祐善

 今年1月の能登半島地震から9か月経過し、ようやく復興への道筋が見えかけた と思い始めた9月に、これまで記録されたことのない豪雨が能登半島に降りました。9月21日の午前に線状降水帯が発生して、輪島市で1時間に121ミリという同市で観測史上最大の豪雨を記録しました。生々しい洪水の様子がテレビ画面で報じられました。被災された方が「どうして、能登だけがこんな目にあわなきゃならんのか」と嘆いておられましたが、これは、ごく自然な感情でしょうね。画面を見ている私たちさえ、どうして能登半島だけが。こんな目に遭うんだろうか?と だれもが思ったでしょう。行方不明のまま遺体が発見されない方が多数おられます。人間の歴史は、呻(うめ)くほかない このような自然の内(なか)で営まれてきたのですね。

 今月、十月という月は北陸路の真宗寺院では報恩講が勤まり始めます。お寺で勤まるということは 実は 門徒が勤(つと)める ということです。しかし、だんだん本堂の畳の部分が広くなってきています。妙な表現をしましたが、お参り方の数が減ってくれば、畳の部分が広くなってくるわけです。昭和51年に本山の出版部発行の「報恩講」という15頁の小冊子がありました。松原祐善先生がインタビューに応えるかたちで
まとめられています。

 「私は宗門の一番大事な行事が報恩講だと思うのです。宗門の歴史というものは、本廟(ほんびょう)におけるこの報恩講を中心に、ずっと展開されたものですね。これは歴史の事実です。私は子供のときからずっと、何によって育ってきたか と考えてみると、やっぱり寺の報恩講でしたね。親たちも、報恩講を迎える頃になると、一生懸命だったね。ちょうど霜月(しもつき)ですから、今年も もう終わりだ と。報恩講で一年を反省し、一年をおくり、新しい年を迎えるのです。一年の くぎり というものを、正月というよりも報恩講というところで思ったものですよ。ですから、私たち真宗人として育ったものは、報恩講で育ってきたんじゃないかね。こんにちまでは ね。」 (2頁)
㊟ ここで言われている「本廟(ほんびょう)」は「真宗本廟」つまり本山のことです。

 「清沢先生は「無限と有限の対応、」あるいは「無限と有限の一致」といわれますね。曽我先生は感応といわれます。無限と有限の一致が、それが宗教心ですね。そしてそれをどこで知らされるのか と申しますと、名号において仏は我を呼ぶし、われは仏にあう わけですね。南無の機 と 阿弥陀の法 が あう のですね。南無の機 は 永遠に救いのない機です。その機を救う という本願、ですから有限無限の一致になるわけです。」13頁

 私たちが両手をあわせて南無阿弥陀仏と念仏することができるのは、実は私たちの口から出てきてくださった南無阿弥陀仏の働きなのだ。という目覚めと喜びが報恩という言葉の中で働いているのでしょうね。そのことが忘れられているのが現在のように思えてきます。