2024年 3月号 なむあみだぶつを、うることわ、なむあみだぶつのなせるなり。

浅原才市 「底本 妙好人才市の歌」楠恭編 法蔵館

 元日の地震から2ヶ月たちました。先日の新聞に2500年前にも今回よりも大きな津波が珠洲や輪島をおそっていた痕跡が見つかったとありました。ということは今回の規模以上の地震がおこっていたということですね。そして、その後、そこに住み続けた人が震災以前の能登半島の生活文化を作ってきたことになります。それが今回破壊されてしまったのです。人間には災害から立ち上がり、生活を続けようとする力があって、それが今回も働き始めているように思います。しかし、なにが人間にとって本当に大切なことなのかを問い直しながら進めなければならないことが、今現在、問われているのでないでしょうか。

 私たちが生きているということは、私の力で生きているのではないことが、まず今回知らされていることではないでしょうか。「私の命」と考えて、そのように言っていますが、その私の命は私の力で たもたれているのではないことが地震という人間が太刀打ちできない大自然の働きの前で あらためて知らされております。思えば それが命の本当の姿なのです。現在生きていることは、本当に たまたまであることを思い知らされているように思います。

 今月の言葉は「なむあみだぶつを、うる(得る)ことわ、なむあみだぶつのなせるなり。」です。浅原才市 ―1850年(嘉永3年)-1932年(昭和7年)― 島根県大田市温泉津町小浜で下駄職人として生活しながら、日頃近くのお寺で聞法する中で、心に浮かんでくる言葉を鉋屑などに書いていたものを小学生の使用するノートに書き残した何冊かのノートのなかのものです。これは他人に見せるためのものではなく。あくまでも自分の心の中に現れてくる念仏のこころの働きを記録したものです。浄土真宗の在家の篤信の人を「妙好人」と呼びますが、その中のひとりです。「日本的霊性」のなかで鈴木大拙師によって広く世に しられるようになりました。

 「他力と言うは、如来の本願力なり」という言葉が『教行信証』にあります。(聖典p193)曇鸞大師の言葉です。また『歎異抄』で もうしますと「如来よりたまわりたる信心」と親鸞聖人の言葉があります。(聖典p629)
 私たちの 生きる ということ、つまり命の中から起こってくる聞法への促(うなが)しは、私たちが私の力、つまり自分の力で おこしてきたものではなく、これは 呼びかけ というものがあって、その呼びかけに促されているのだ ということがあると思います。
才市さんの言葉では「なむあみだぶつを、うる(得る)ことわ、なむあみだぶつのなせるなり。」となるのです。ひたすらな聞法の中で聞きとられてきた才市さんの心の中ではたらいてくださっている「なむあみだぶつ」の はたらきを実感する そのままに「ひらがな」という才市さんの知っている文字で綴った言葉です。お念仏を戴いただけたのは、お念仏が私の中で はたらいていてくださったのだ。「廻向」という浄土真宗の一番大切な核となる ことがらを言い当てている「ひらかな」の言葉です。