2024年 5月号 「今」 大切なのは かつてでもなく これからでもない 一呼吸 一呼吸の 今である。

西田幾多郎 「善の研究」岩波文庫 227p

 元日の能登半島を震源とする激しい地震から三ヶ月がすぎました。あの地震で沢山の方が亡くなられ、建物が倒壊し、町が壊れてしまいました。町だけではなく港も山も田畑も壊れてしまいました。また、沢山のお寺院が壊れ、中には住職さんや寺族の方が亡くなられたお寺もあります。ある意味で今回の地震は真宗教団を支えてきた地盤の一角が激しく揺るがされているという意味も持っていると思います。

 近頃身近に感じているのは寺離れということです。かって、この地方に生きていた、ある程度の年齢になってきたらお寺参りを自然に始めるという伝統的な気風が、もう働かなくなってきていることを感じさせられます。大きな立派な伽藍は健在ですが、そこに参詣する人の数は減っていくばかりのように感じます。先日88才ながら元気に参詣くださるご婦人から、こんなことを聞かせてもらいました。「この町には80才90才の高齢者がいっぱいいる。みんなサビシイ、サビシイと言っている。お寺に一緒に行かないか と誘ってみるが、そんなところは行かない という。来れば良いのにね」ということでした。「寺なんか。ボンサンの言うことなんか聞かなくても解っている」ということなのでしょうね。でも「サビシイ」ということは、その人の心が求めていることが満たされていない ということなのではないでしょうか。

 西田幾多郎著「善の研究」は60年前に大学の「哲学」の担当の教授に読むように薦められた本です。大学生の時に出会った本に、お迎え間近の後期高齢者になって改めて出会いなおすことのできた言葉なのです。 岩波文庫 四編「宗教」

 「宗教は己の生命を離れて存するのではない、その要求は生命其者(そのもの)の要求で有る。」とは、私たちの生命自身が本当に求めている要求があるのだ と言っておられるのでしょう。清沢満之先生の「人心の至奥より出づる至盛なる要求のために宗教あるなり」という言葉を思いおこされます。また、清沢先生は別のところで、こうも言っておられます。「人生のことに真面目でなかりし間は措きて云わず、すこしく真面目になり来たりてからは、ドーモ人生の意義に就いて研究せずに居られないことになり」と、言っておられます。(『わが信念』)

 私たちの人生の中で、問わずに済ませることが出来ない いのちが持っている問い を問わないままで、長い人生を終える人が、今やどんどん増えているのではないでしょうか。
「本願力に あいぬれば  むなしくすぐる ひと ぞなき」というご和讃がありますが(高僧和讃)一回限りの我が命の要求に耳を傾けようとしないのが現代人のように思えてなりません。