金子大栄 『口語訳 教行信証』より
とうとう今年最後の月である12月になりました。個人的に、この1年は 特に早く過ぎてしまったように感じています。1月から3月初旬まで土日と祝祭日以外は毎日通院という日を過ごしましたが、いろいろ聞き かじっていた治療に つきものの副作用なんでしょうね。しんどい日々も経験した1年間でした。待合室で よく一緒になっていた同病の方の突然の訃報を耳にして 病気の持っている厳しさを教えられました。また私よりも若い組内(そない)の住職さんが何人も病気で亡くなられました。身近に老病死を感じさせられています。まさに「生死(しょうじ)に悩む凡夫」であることを 身に頷かされた一年でありました。
「念仏は、生死に悩む凡夫の ささやき」という金子先生の言葉が、まず目に入りました。生死に悩む とは、自分の力では思うように できない生の事実に出会っている私たちの悩みでしょう。自分の力では どうすることも出来ない身の事実の悩みの中から、ふと漏れ出てきてくださる「ナムアミダブツ」であります。「罪障(ざいしょう)を痛む自我が崩れる うめき」とは、どうして こんな生き方ばかりしているのだろう・・と 自分の生き方なのに 自分で どうすることも出来ない悲しみでしょう。その悲しみの中から漏れ出てきてくださる「ナムアミダブツ」があるのです。八方ふさがりの身だ と落ち込む私たちに、「ここに道があるのだよ」と示してくださるのが「善知識(ぜんじしき)」なのでしょう。善知識に「遇(お)うた」と書いておられますが、遇(ぐう)は「たまたま」という意味を持っている文字です。本当に幸いにも よき人に遇うことが出来た喜びとは、行き詰り、どうすることも出来ない者に、あなたにも歩める道があるのだ と歩む道が見いだされた喜び なのでしょう。「本願の大悲を感ずる」とは 私たちに かけられた願(がん)に気づいたということでしょう。こんな私に願いをかけていてくださったのか という驚きと喜びが言葉となって私たちの口から出てきてくださる「ナムアミダブツ」です。
大悲を感ずるもの の 心音(こころね) と ありますが、心 が 音色 を持っているのですね。「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし」の人生であるにも かかわらず、念仏申される人の歩みから美しい響きの「南無阿弥陀仏」が もれ聞こえるのは 確か ですね。