2025年 6月号 毎日の現実には死を含めて生きている。生きていることに慣れると、いつまでも生きているものと考えて、いつの間にか当然のごとく思い込んでしまう。

高光一也 『近代画集と歎異抄ノート』六藝書房

 今年の5月は、猛暑日があったり、翌日は寒いような日になったりしておりました。冬物を脱いだ翌日には、また冬ものに着替えねばならず、寝具も選択に迷わされました。いよいよ今月は梅雨の季節に入りますが大雨、洪水の被害があってほしくないのですが 南北に長い日本列島ですから、どこかで大雨の被害がおこる という季節がはじまります。

 今月の言葉は金沢美術工芸大学教授で画家、そして金沢市北間の専称寺住職でもあられた高光一也師(1907年-1986年)の言葉です。ご承知のとおり高光大船師のご長男です。

 巻頭の言葉の前に次のような言葉があります。
「車窓からは風景が走っているように見えるが、もちろん列車が走っている。急死された方をおくやみしての ことばに「なんとした間違いでしたやら」と言う。列車に慣れたり、生きていることに慣れると、只今を錯覚して間違えて考えることがある。」とあって、今月の言葉である
「毎日の現実には死を含めて生きている。生きていることに慣れると、いつまでも生きているもの と考えて、いつのまにか当然のごとく思いこんでしまう」 (p128) が続いています。
 2023年の日本の平均寿命は、男性が81.09歳、女性が87.14歳です。これは、前年比で男性は0.04歳、女性は0.05歳 延びているのだそうです。これほどの長生き社会ですから、急死した人があれば「なんとした間違いでしたやら」と「間違い」で死んだと受け止めてしまう感覚になってしまうのでしょうね。これは、生の裏側は死である。という命の本当の姿を見失わせてしまうことが私たちの中に おこさせている要因なのではないでしょうか。命の事実から目がそらされた時に人間は宗教離れか、宗教を御利益追求のものにしていくように思われます。長生き社会は人間の感覚を「生きていることに慣れると、いつまでも生きているものと考えて、いつのまにか当然のごとく思いこんでしまう」ものにしてしまうのでしょう。しかし「毎日の現実には死を含めて生きている。」のです。私たちは、地震や台風の自然災害にいつ巻き込まれるか分かりません。交通事故も頻繁に おこっています。道路を走っていたトラックの運転手さんが道路の陥没に巻き込まれて亡くなられましたが、生が一瞬にして死に変わってしまわれました。実は 生きている ということは タマタマなのでしょう。
 『口伝鈔』には「凡夫に死の縁、まちまちなり。火に やけても 死し、みずに ながれても死し、乃至 刀剣にあたりても死し、ねぶりのうちにも死せん。」真宗聖典 再p822 初p675
とあります。生をきちんと見つめて受け取る ということは、実は 自分が生きている とは 死を持って生きていることも受け取ること なのでしょう。生ということを自分の都合のいい面だけを見るのではなく、本当の生、つまり死を含めて生きている事実を受け取って生きることであり、そこに宗教ということが必要になってくるのでしょう。