通信講座「正信偈」講録 『正信偈』を貫く本願の教え 解説 竹中智秀先生 より
蓮如上人はいつでも門徒大衆に、「本尊は掛けやぶれ、聖教は読みやぶれ」(蓮如上人御一代記聞書 第六十九条)と、声をかけて勧められています。また、「おれほど名号をかきたる人は日本にはあるまじきぞ」とかたられるほど、多くの名号を書いて門徒大衆に与えられてもいます。
今日、真宗門徒のしるしとして、伝統されてきている『正信偈』『和讃』の在家勤行は、上人が制定させたものです。
上人当時から、門徒大衆は名号を本尊とし、親鸞聖人のご影像を身近にして、その前で、勤行を行なってきたのです。その勤行も上人によって、
「朝夕(ちょうせき)の勤行は如来・聖人の御用(ごゆう)にて候(そうろ)う」(蓮如上人御一代記聞書 第三十一・七十九条)と、示されています。「勤行をしてほしい」という、その呼びかけに応えて行なわれるもの、とされているのです。
その理由は、上人自身が「『正信偈』『和讃』は、衆生の、弥陀如来を一念にたのみまいらせて、後生助かり申せ、とのことわりを、あそばされたり。よくききわけて、信心をとりて、ありがたやと、聖人の御前(ごぜん)にて、よろこぶことなり」(蓮如上人御一代記聞書 第三十一条)と示されています。
それは勤行といっても、ご本尊、阿弥陀如来の前で、『正信偈』・『和讃』によって、今現在(こんげんざい)説法(せっぽう)したまう(ただ今 現にましまして説法しておられる)法身(ほっしん)(真理そのもの)の親鸞聖人に直接教えられて、一人ひとりが阿弥陀如来の摂取不捨の、えらばず、きらわず、みすてずの大慈悲心に遇って、助けられていくことです。
現在はとくに「家族という名の孤独(斎藤学著 講談社)」といわれ、また、「俺、ホームレス」ともいわれ、私たちは帰っていくことのできる家を喪失しはじめています。私たちの帰っていくことのできる所は、私たちを待って迎えてくれるもののいる所 以外にはありません。それが家なのです。その家が家でなくなってきているのが現代です。
この事実は門徒大衆にとっては、先祖たちが大事に相続されてきたご本尊と、『正信偈』・『和讃』の勤行とを忘れていることにもなります。このことを回復することによって、家の復興が願われます。