2016年 1月号 本願の不思議は念仏しない者には信ずることができない。

『金子大栄集下』教学研究所

 今年は雪なし元日となりました。大変有り難いことなのですが、どこかに、こんなことで大丈夫だろうか?と天変地異への不安感がおこってまいります。冬は冬らしいのが一番良いのだと思う反面、実際に雪かきの日々になると悲鳴をあげてしまうことでしょう。昨今は、耳と目に老年の実感があります。しかし、これは年令相応なのかもしれません。会話中に相手の言葉が聞き取れず弱っていると、察しのいい人は大きな声で言い直してくれます。あと何年間生きさせてもらえるのか判りませんが、この不自由さは、「お前の人生は残り少ないのだぞ、それに気付け」というご催促だと思っております。
 このようなご催促をいただいても、いっこうに呼びかけを聞き取ろうとしないのが現在の高齢者層の社会現象なのだと思います。残り少ない我が命を見つめ直そうともせず、二度と戻ってこない時間を浪費しているのではないのでしょうか。私たちの「いのち」とは、ただ「生きている」ということだけではないのでしょう。私たちを生かしている願いが深い底には流れているのではないのかと思えてきました。「帰命無量寿如来」と朝夕のお勤め時に称している「無量の命」が、私たちの「いのち」の深いところに流れつづけていており、それが私たちをこの世に生かしてくださっている「いのち」なのではないのかと思うのです。ですから決して私のものでは無いのです。私のものなら私の自由になるはずですが、全く私の思い通りにはなりません。清沢満之先生の「人心の至奥より出ずる、至盛の要求のために宗教あるなり」という言葉があらためて宗教とは いのちそのものの唯一の要求であるのだ。と このように考えると受け取れるように思えてきました。
 今月の言葉は大谷派の教学研究所発行の『教化研究』に掲載された論文をまとめた『金子大栄集』(下)からいただきました。この言葉の前後を読んでみましょう。「われらはいかにして弥陀の本願を信ずることができるか。ただ念仏のこころにおいてである。念仏もうさなくとも、「弥陀の本願には老少善悪の人をえらば」れないことは思い知ることができるかも知れない。人間愛の思想と通ずるものがあるからである。されど、それは道理としてそうあるべきはずと思うだけであって、身についた信心ではない。したがって「罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします」ということを思い知ることはできぬであろう。念仏しないものには、自身こそ本願の正機であることを感ずることができないからである」(2p)とあります。
 現代とは人間の理性とか知性に基づいて、いわゆる科学的証明を信じる時代なのでしょう。しかし、それは人間が証明できる範囲に限られたことですから自ずと限界があることなのです。ところが、この限界をもった証明できたことを、これこそ真理であると思い誤っているのが現代の科学信奉者なのです。その信奉者はどこにいるかというと向こう三軒両隣に住む我々庶民なのです。ノーベル賞を受賞したような優れた科学者たちの言葉を聞きますときわめて謙虚でありませんか。金子先生はさらに「本願の論理は念仏しない知識人も語ることができる。されど本願の不思議は念仏しないものには感ずることができない。したがって念仏しないで本願を語るは行者のはからいといわねばならぬであろう。これを訳せば本願を信ずるとは念仏もうす身になるということである」(3p)とあります。「本願を信ずる」とは謙虚になることであり、自身の真の姿に目覚めることなのでしょう。
 私たちの現在の生き方を、「これでいいのだろうか?」と思い返させるはたらきを先の清沢先生の言葉と照らし合わせてください。私たちの心の中に人間が決めている決め方に満足していない事実があるはずです。お内仏の前に座り 手を合わせる時、なぜか知識では得られない充足感があるのは不思議なことではありませんか。

2016年 1月号 本願の不思議は念仏しない者には信ずることができない。」への1件のフィードバック

  1. 本願の大地から戴く野菜やお米は、阿弥陀仏そのものです.
    化学万能の限界を知れとお念仏の声が聞こえます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です