2016年 12月号 弥陀の本願は、誰もが迷わない易行の大道、念佛往生の大道を一切衆生のために開顕してくだされたのであります。

曽我量深 『往生と成仏』法蔵館22p

 11月の末頃から年賀の欠礼の挨拶状が届きはじめました。ほとんどが高齢の方で人生を歩みきった方々ですが、中には私よりも若い方のものもあり 差出人は息子さんになっております。『末燈鈔』の(聖典603p)「なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのし(死)にあ(合)いて候うらんこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死(しょうじ)無常(むじょう)のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう」という親鸞聖人のお言葉を聞き直させられております。
 先日、大学に入ったときからお世話になっている先生から「また、御浄土でお会いしましょう」というお言葉をいただきました。お念仏の教えに遇わせていただいた私たちは、この世の別れの悲しみは、同時に御浄土での再会の楽しみを与えて下さるのだ と知らせていただきました。その数日後に、この先生と大谷大学の同級生である大分のお寺の前住職さんがお亡くなりになったということを旅先のホテルで知らされました。この方は決して多弁の方ではありませんでした。無駄なことは言わないという方でありました。二十数年間のご縁を通して今、私の心の中におられるその方とは、寡黙に、仏様のお仕事のお手伝い一筋に人生を歩まれ、人間の一生を、そのこと一筋に尽くされた方だったのだと御浄土に還っていかれた後ろ姿が教えてくださっております。人間は別れることによって初めて出遇えることもあるのですね。

 今月の言葉は曽我量深先生の『往生と成仏』からです。この本は二部構成になっており 一部は曽我先生、二部は金子大栄先生が全く同じテーマで講演された記録です。最初 岡崎教務所から出版され、その後 法蔵館から出版されています。

 阿弥陀仏の本願とは どのようなことか?ということを「弥陀の本願は、誰もが迷わない易行の大道、念仏往生の大道を一切衆生のために開顕してくだされたのであります」という言葉でしめしてくださっております。「本願は誰もが迷わない、往きやすい 大きな道であり、一切の衆生が念仏して苦難の人生を歩んでいくことのできる御浄土への大きな道をはっきりと示してくださった、それが如来の本願です」といただけるのではないでしょうか。

 私たちは「如来の本願」を解(わか)ったことにしているのではないでしょうか。解ったことにするとは、解ったのではないのでしょう。解ったつもりでいる。解る努力をしないままでいるということでないでしょうか。そうだとすれば、解らないまま、不明なままで自分自身を誤魔化しているということなのでしょう。そして、それは往き先が全く見当たらないということではないでしょうか。往き先が解らないままでありながら、そのことをホッタラカシにしたまま平気でいるのが私たちなのではないでしょうか。まさに無明という言葉が表している暗さの中で生き、死んでいくだけということが、二度と繰り返すことのできない人生であるにもかかわらず、自らを省みない愚かさ ですが、その愚かさを本当に知るがゆえに起こされたのが 如来の本願なのでしょう。このことは 浄土真宗とは どのような教えなのか を明らかにする大事なポイントだと思います。一人一人が改めて問い直すべき課題ではないでしょうか。

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