正親含英『浄土真宗』37p
今年の3月1日は雪になりました。例年より早く花を付けていた梅は雪に包まれてしまいました。しかし、夜の寒さで雪が氷になっても負けずに花を付けている強さに感動しました。
先日デイサービスの施設を運営しているお寺にご縁があって午前と午後の法話をさせていただきました。日曜日だったので、デイサービスはお休みだったため坊守さんが熱心に聞いてくださいました。昼食時にこんなことを教えてくださいました。「80歳を越す高齢で褥瘡(じょくそう)ができて骨が見えているような身体なのにお内仏の前では、座ることなど出来るはずのない身体だと思うのに正座して合掌し、深々と頭をさげられるのだ。「ごえこう」(ご回向)とはこれだ、と本当に感じさせてもらえる」ということでした。長年にわたって沢山の高齢者の方をお世話してこられる中での実体験されたことです。
かって、お仏壇の前に座り、手を合わせ、念仏することは真宗門徒の日々の暮らしの姿でした。ところが、そのような姿が、高度経済成長期の頃から急速に失われてきたのではないでしょうか。豊かな暮らしと引き替えに、心のほうは
貧しくなってきたのではないでしょうか。テレビや新聞で報道される、幼い子どもを親が殺す。高齢の親を子が殺すという悲しいニュースにモノの豊かな社会の心の貧困を感じさせられます。モノは有ります。しかし人間とはモノさえ有れば幸せなのでしょうか。現代人に抜け落ちてしまっているものはなんでしょうか。それは、私たちの一人ひとりに願いがかけられているということを
見失ってしまっていることでないのでしょうか。一番強いはずの親の願いさえも感じ取れないような親子関係ではないでしょうか。もう一つ私たち一人一人が願われている、私たちが、このようなかたちでしか生きられないことを悲しんでいる眼のあることを感じることができないような生き方に落ち込んでしまっている寂しさや空しさ、あるいは悲しさに包まれた日々をすごしているのではない
でしょうか。
正親先生はこのように述べておられます。「如来のあることを信ぜぬ人であっても、人が人として生存している限り、だれかの願いが、いずこからか、いつの時からか、かかっていない人は一人もないはずであります。しかるに、また、現実の多くの人は、自らが他にかける願い、自分のおこす願いだけを思って、自分にかけられた願いを忘れ、知ろうともしないのであります」27p
そして、いまや多くの人が顧みようとしない仏の本願ですが「如来の願いが聞こえた日から如来の願いに生かされていくのであります」と。浄土真宗とは「如来の本願」を聞くことが出来るような人こそ、真実の人になる道であり、決してやり直すことの出来ない今回ただ一度限りの人生を真に満足させてくれる道が合掌礼拝することによってしか聞き取れない唯一の言葉、「南無阿弥陀仏」と出会う道なのでしょう。