2016年 8月号 法をときて きかすひと ならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。

存覚『浄土真要鈔』真宗聖典722p

 今年の暑さはことのほか厳しく感じられます。老体だからでしょうか。ふと幼い頃の夏を想いますと、暑さはもっと優しかったように思えます。人間の欲望が激しいモノになり、地球から手に入れられるモノを奪い、自然界には存在しなかった物質が地球の持つ浄化機能を超えて汚染物質として放出され続けたために、自然からも優しさが失われ、風も、雨も、暑さも激しいモノになってきたのだろうと思っております。あらゆる生き物が暮らしにくい地球にしているのは人間でしょう。「自然がくださるものをいただくのだ」という世界観はどこに消えてしまったのでしょうか。「自分で自分の首を絞めるようなことをする」という表現がありますが、経済発展と便利な暮らしを享受していることの「自業自得」として ひどい世界に身を置かなくてはならなくなっているように思います。

 今月の言葉の「存覚(ぞんかく)」さんとは、本願寺第三代の覚如(かくにょ)さんの長男です。当然 本願寺の第四代になられる方でしたが覚如さんが義絶してしまいます。野心家の父親には学究肌の息子が煙たかったのでしょうか。存覚さんの著書『六要鈔』は親鸞聖人が生涯をかけて著された『教行信証』の詳細な注釈本で、現在も大学院の博士課程で『教行信証』を研究しょうとするときの必読の書です。

 「法をときて きかすひと ならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識と名づく」真宗聖典732p 
 これは『浄土真要鈔』という存覚さんの御著書にある言葉です。「法を説いて聞かすという立場の人ではないのだけれども、人に法を聞こうという心にさせるご縁になる人も善知識と名付けることができる」と、いつものことながら乱暴な現代語訳ですがこうなるでしょう。

 この本の中で存覚さんは「総じていうときは真の善知識というは諸仏・菩薩なり。別していうときは、われらに法をあたえたまえるひとなり」721pとした後に「たとえば 船師のよくひとをわたすがごとし。かるがゆえに大船師となづく。もろもろの仏・菩薩も またまた かくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもってのゆえに善知識となづく」と記した後に「仏・菩薩のほかに善知識は あるまじきか」という問いを立てて『大経』下巻にある「如来の興世あいがたく、みたてまつり がたし。諸仏の経道えがく ききがたし、菩薩の勝法・諸波羅密(はらみつ)きくことをうること またかたし。善知識にあいて法をきき、よく行ずること これまた かたしとす」(『大経』の原文は 真宗聖典87p)と、如来のおられる時代ではない。拝することも出来ない。だから仏様の教えにも あえないし、菩薩方の教えをきかせていただくこともできない。このような時代ならば「仏・菩薩のほかにも衆生のために法をきかしめんひとをば善知識というべしと きこえたり。また まさしくみずから法をときて きかすひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となずく」(真宗聖典732p)とあります。(波羅密=彼岸へ到るための行。迷いの世界から悟りへ到る菩薩行)

 私たちは「仏法を聞こう」という気持ちを自分で起こしたでしょうか。いま仏前に座り、両手を合わせ、頭を下げることが出来ているところに 具体的な人のすすめが有ったのでは無いでしょうか。 私をして仏様の教えを聞くことのできる身にしてくださったのは、祖父母であり、親であり、兄弟姉妹であり 子であった。その人は浄土から私のために来てくださった方だったと頷く世界があります。

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