2016年 9月号 念仏生活というのは、娑婆にありながら阿弥陀の浄土を願生させてもらっているということでしょう。

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松原祐善

 今年の8月は一度に3個の台風に日本列島が取り囲まれたことがありました。なかでも10号は八丈島沖から九州に向かって南下するというこれまでにないようなコースを進んでいると思っておりましたら九州から突然Uターンして関東に戻り岩手県に上陸して東北、北海道に大きな被害をもたらし、オホーツク海に抜けていきました。こんなコースは気象台の台風観測史上初めてのことだったようです。そして猛暑日もいつまでつづくのでしょうか。70数年経験してきたこれまでの夏とは違った激しい夏でした。

 私事なのですが、深いご縁をいただき何十年もお付き合いくださった方が次々にお浄土に向かって行かれました。あるお坊さんは、いつものように朝のお茶を飲んでおられたのですが、その玉露を飲み終えられて、そのままお浄土に向かわれたそうです。自分自身の歳を今年は74歳なのだと考えますと周囲に迷惑をかけずに逝きたいものだと思うのですが「凡夫に死の縁まちまちなり」(『口伝鈔』真宗聖典675p)ですから、私が はからうことのできないことなのです。「自分の命だ」と言いますが、自分の思いのままには ならないのです。何年、何月、何日、何時にお迎えが来るのか誰も知ることが出来ないのです。それも どのようなかたちでなのかも不明のままです。最近自分の子供の年齢である若い方に「私は癌の疑いがあるのです。」と聞かされて言葉も だせなかったのですが「凡夫に死の縁まちまちなり」なのだと知らしていただきました。
 蓮如上人は『御文』の4帖目2通で、当時の定命(じょうみょう)は56歳と書かれた後で、私は63歳にもなって世間の定命よりも7年も生き延びている。けれども「いかなる病患(びょうげん)を受けてから死の縁に のぞまんと おぼつかなし。これさらにはからざる次第なり。ことにもって当時の体たらくをみおよぶに、定相(じょうそう)なき時分なれば、人間の かなしさは、おもうようにもなし」と書いておられますが、これが人間の死の姿だ という定まった形は全くないのです。その人その人にまちまちなので思うようにはならないのですね。

 これまでの人生で出遇わせていただいた沢山の念仏を尊び、喜び、聞法する一生を歩まれた先輩方のお姿を思います。そこにあるのは、死んでいくことを「お浄土にまいらせていただく」という平易な言葉で表現されて、それぞれの苦労多き一生を終えていかれた方々のお姿です。語れば愚痴にしかならないような苦労多き人生にも「遇(あ)わんならんことには遇うていかんならんもんや」と思い通りにならなかった人生だったからこそ大事なことに気づくことができたのだった、と受け取ったお婆さんもおられました。

 今年にお見送りした方の中に自分の理性、知性を信じて、ついに仏様の教えに耳を傾ける ということのないままに人生を終えた方がおられます。その人には安(やす)んじて帰って行く世界は最後まで持てないままでした。松原先生の「念仏生活というのは、娑婆にありながら阿弥陀の浄土を願生させてもらっているということでしょう」(『汝自身を知れ』同朋社1987年-松原祐善先生傘寿記念出版-)という お言葉があらためて お念仏から私たちがいただいている世界がなんであるかを教えていてくださったことに気付かせていただきました。念仏できなかった方との出遇もまた私にとって尊い仏縁だったのでした。

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