2016年 7月号 生死を離れるとは、生と死を二つに見分けて、生に執着し、死を恐れるという心を離れるということなのです。

宮城 顗 『後生の一大事』より

 7月に入るや猛暑がやってきて、老体は我慢できずにクーラーのお世話になっています。クーラーが当たり前という環境で育った若者たちには発汗して身体を冷やすための汗腺が無くなっているそうです。環境の変化は人間の身体の構造まで変えてしまうのですね。このため熱中症になりやすいのだそうです。楽を覚えてしまうということは、ある意味で怖いことなのです。駅でエレベータに殺到する高校生を見ていると「君の老後に辛いことが待っているよ」と言ってやりたい気持ちになります。

 「時代の変化」ということばで様々なことが語られますが、身近に感じられますことの一つにお寺参りする方の減少があります。半世紀前に比べますと激減といえるでしょう。それは現在だけが確かだ。現在しか無いのだ。と未来は切り捨てて、考えようともしないという有り様が世の中に蔓延してしまっているところからおこっているのではではないでしょうか。生のみを見つめて、死は見ないことにするというのは若者はともかくとして、介護保険のいう後期高齢者になっていながらも自分の死の事実を考えようともしないのです。自分の親が亡くなった年齢を超えていることに愕然とする人や、親の亡くなった年齢まであとわずかになっている自分に気づいて驚きを発する人が時々いてくれます。両親がお寺に通っていた姿を思い出したときに自分自身がお寺に足を運んだことも無いし、法話も聞いたことが無いことに気づいて親は何を聞きに行っていたのだろうという思いを抱いた人もいます。このような思いを語ってくださる人に出会いますと、ご両親が催促していてくださるのだという思いになります。

 「生死をはなれる」という言葉は親鸞聖人が亡くなられたことを、娘の覚信尼から知らされた恵信尼さまの返信に有る言葉です。一部を紹介しますと「殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候(そうろう)。山を出でて、六角堂に百日こもらせ給(たま)いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて候(そうら)いければ、やがてそのあか月、出(い)でさせたまいて、後世のたすからんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべき道をば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わり候いしかば・・」(真宗聖典 617p)と親鸞聖人の若き日の求道の姿が記されたところにある言葉です。

 私たちには「生死出ずべき道」を求めたいという要求は既にどこかに失ってしまっています。今さえ楽しく過ごせたらそれでいいと思っているのですが、その思いを破るものが現れます。だれひとり逃れることの出来ない「老苦」が待っているのです。しかも、その先には、目をそらし続けてきた「死なねばならない」という身の事実です。そして、老いの現実とは その事実さえも正視し受け止めることができない身心になっているのです。「若きとき、仏法は たしなめ」(867p)と蓮如上人御一代記聞書にあります。

 宮城先生は このように言っておられます。「生死出べきみち とは なにかというと、その生死のとらわれから離れるということです。私たちは生にとらわれ、死を恐れて、そこに常にいろんな不安をもち、迷いを重ね、そのために-いろんな言葉に迷わされて、お札を受けたり、なんだかんだといろいろするわけです。
 そういう迷いのねっこにあるものは生死にとらわれる心なのです。生死を離れるとは、生と死を二つに見分けて、生に執着し、死を恐れる心を離れるということなのです。」(98p)と教えてくださっています。
『後生の一大事』宮城 顗著 法蔵館

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