2019年 12月号 雨の日 には 雨の日の悲しみの日 には 悲しみの日のかけがえのない 大切な人生がある。

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東井義雄 「おかげさまのどまんなか」 佼成出版社

 師走となりました。後期高齢者なるゆえでしょうか、すごい早さで月日が過ぎていくことを実感しています。秋から冬に季節が変わり11月末には近くの山々には雪が来ております。そろそろ平野部にも雪が来ることを知らしせる雷が鳴っています。「雪起こしの雷」という言葉が北陸に有ります。

 天候も自分の都合に合わせて 良い、悪い と言っていますが、一年365日 雨が降らなかったら大変です。雨が降り、雪が降り、日が照り、暑さがあり、寒さが来る という変化のおかげで日本列島に植物が茂り、人間を含む生物が生きていける条件が整うのでしょう。雨の日を「天気が悪い」と言うのは人間の身勝手さ から出ている表現なのでしょう。

 世の中に「ご祈祷(きとう)」ということがあります。浄土真宗のお寺とは無縁ですが、祈祷をする場所 が お寺である という考え方もあります。祈祷の他に「お祓(はら)い」ということも宗教的行為であると考えられているでしょう。そうすると宗教とは どのようなことになるのでしょうか。「神仏の力によって人間の願いを かなえてもらうこと」になってしまいます。しかし、そのことは本当に人間の苦悩の解決になるのでしょうか。「長生き」さえも そこには 受け止めかねる苦しみ が隠れて付いてくるのです。祈祷の中味は「無病息災・商売繁盛・家内安全」そして「恋愛成就」ということまで言われています。しかし、そこには「老病死」していく私達の身の事実の解決は全く言われておりません。それどころか、そのことに気づかせようとする宗教的な呼びかけ が 見受けられません。恋愛が成就しても、商売が繁盛しても、無病息災であっても老病死していかなければ成らないのが 私たち人間の実態ではないでしょうか。

 巻頭言に使用させていただいている言葉の前には次のような文章があります。「悲しみや さみしさ で 人生を深めさせてもらう のっぺらぼうの浅い人生では申しわけないから、南無阿弥陀仏」(『おかげさまのどまんなか』55p 東井(とうい)義雄著 佼成(こうせい)出版社)
 私達が 出遇いたくない と考えている「悲しみ や さびしさ」が、本当は 人生を深めさせてくれる大切な契機なのだ と言っておられます。悲しさや寂しさは、どこの 誰の身にも例外なく おこってきます。しかし、それを 人生から の 私達へ の 問いかけだ と受け止めることができずに、目をそらし、まぎらわせる方法しか求めようとしていないのが 私達のしていることではないでしょうか。長生きを願っていたら「老」という世界に行き当たります。東井先生は このように言われます「長い年月をかけて何になったのか」「じじいになった」「ばばあになった」というだけでは申しわけない それでは何になったのか 念仏申す身にしていただいた」(56p)と。長生きを願っていたら気づいてみたら老人という力弱いものになっていました。でも力弱い者になってみて初めて気がつくことがあります。「自力は間に合わないものであった」ということです。私達はこの一事を知るために長い年月が必要だったのです。そこに「愚か」という文字が私のことだった と頷けて来るのです。
 「拝まないものも おがまれている。拝まないときも、おがまれている」(58p)という言葉 で 私達を願い続けていて下さる願い に 目覚めた喜び と、気づけない身の悲しみを歌っておられます。

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