2019年 3月号 世渡りを七十年もけいこして まだ ときどき つまずくとは

榎本栄一 詩集『煩悩林』より

 弥生3月となりました。梅の花が 時は来たれり と、咲き始めました。今年は早くも花粉症が出てきました。この道五十数年という大ベテランである私ですが、クシャミや鼻水、鼻づまり と、うっとうしい気分でおります。大ベテランですが こればかりは慣れて平気ということにはなりません。

 今月の言葉は、すでに何度か ご紹介している榎本栄一さんの詩集のうち『煩悩林』からです。この詩集は昭和53年東本願寺難波別院の発行です。詩の題は「未熟」と付けられています。

「未熟」世渡りを七十年もけいこして まだときどき つまずくとは


 私は誕生日がきますと満77歳になります。「喜寿」といいますが、なにが嬉しいのか 全く判りません。身体は老化により、できないことが次第に増えていきます。我が身の老 で有りつつも十分に理解できない「老」なのですが、耳と目の衰えは自覚できます。具体的に不自由さを実感しています。人の名前だけでなく日常生活で使用してきたモノの名前が、ふと出てこなくなりました。この「老」の体験の 最初 は 幼児期に歌った童謡の「村の渡しの船頭さんは今年六十のお爺さん」が 還暦だな と思ったときに浮かんできました。「お爺さんなんだぞ」と身体的には、まだ十分な自覚にならない「老」でしたが 我が身のこと として考えさせておりました。今では身体全体に老を感じさせられています。しかし、その 老から学んだ ということには まだ至っておりません。

 私たちは、それぞれに人生という年月をいただいております。時間と言っても良いでし ょう。その時間を浪費してはいないでしょうか。その浪費とはなにか?と問われますと清沢満之先生の『臘扇記』(日記)に「自己とはなんぞや。是 人生の根本的問題なり」(岩波全集8巻 363p)という言葉があります。私たちは人生の根本問題を問わないまま年月を過ごしてきました。そして、根本的問題と向き合わないまま人生を終わってしまいそうです。蓮如上人は「後生の一大事」と言っておられます。その「後生」を 死後 と考えてしまいがちですが、死ということで終わってしまうのが人間の一生ですが、その事実を正視して、「人間とは死ぬものだ」という視点から 生を問い直す という根本的な人生の問い直し ということが大切ではないでしょうか。現在の生を成り立たせているのが過去であり、その現在が作りつつあるのが未来なのでしょう。それならば後生は死んでみなければ判らない世界ではないのでしょう。現在の生を 問い として生きようとするときに、自然に私たちの前に課題として開かれてくるのが後生でないでしょうか。この詩集に「巡礼者」という詩があります。「巡礼者」ここは 濁り ざわめいているが 私は ここが好きで つらいこと もあるが しばらく ここで足を止めます。人生を巡礼の旅と言っておられます。その旅のなかで こんな詩が生まれています。

「峠」まん七十一歳という峠に立てば なんと世間が ひろびろとして 私が たどたどしく あるいたことか。

また

「ローソク」仏の前で いっぽんのローソクが ゆらゆらと 燃えて 消える それでよろしいな 私の一生。

 つまずいて転んでばかりの人生を「それでよろしい」と受け取れる世界があります。そのように受け取らせるはたらきがあるのだ と榎本さんの詩は伝えてくれます。

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