2019年 11月号 浄土真宗に帰しているからこそ、真実の信がない、ということが分かるのである。

米沢英雄 「信とは何か」

 そろそろ寒さが本格するはずの11月ですが、10月から御縁のあるお寺の報恩講でお御堂にストーブが焚かれていたことがまだありません。地球の温暖化ということを感じさせられています。台風19号が、関東から東北にかけて大きな被害をもたらしました。台風が本土に上陸する地点が北に移動してきているのは地球の温暖化と関係があるのではないでしょうか。
 私は今年で77歳になりました。同級生の訃報が届きます。友人達にガンを患う人数が増えています。私の体内にも今はナリをひそめているガン細胞が暴れ出す機会をねらっていることでしょう。 なにしろ二人に一人はガンで亡くなる時代ですから。先日、ガンの治療中の友人の見舞いをいたしました。私と同じ世代ですから、お寺と御縁が深い世代とは言えません。しかし、育ったのが真宗の土徳が残る地です。明治政府が強行した愚策の廃仏毀釈の折に一揆を起こした町です。小さな町なのにお寺の数が多い町です。その友人を見舞って話しているうちに「この病気になってから元気で居ることが当たり前でないことがわかった」「朝に目が覚めたら、ああ、今日も命があったと感動する」と話してくれました。その人の血の中に流れて居る浄土真宗の伝統と言うことを感じました。友人は意識的に足を運んで聞法していた人でもありません。しかし、どこかに大切にしなければいけないこととして、お寺、お仏壇、お念仏、合掌があるという感覚はもっているのです。それは、両親や祖父母の日常生活の中にいきていた真宗の教えだったのではないのか?という印象を会話の中で持ったのです。血の中に流れ続けていた真宗の教えが、教えを頷いて語られてきた祖先の言葉が いつの間にかその人の中に働いていて、今その病を受け取らせているのだと感じたのです。
 親鸞聖人の和讃に「罪障(ざいしょう)功徳の体となる こおりと みず の ごとくにて こおりおおきに みず おおし さわり おおきに 徳おおし」(『高僧和讃』曇鸞章)があります。「さわり」が「徳」と変ずるのです。ガンでさえも、大切なことに気づかせてくれる御縁になるのです。宗祖は『教行信証』を結ばれるにあたって道綽禅師の『安楽集』の「前(さき)に生まれん者(もの)は後(のち)を導き、後(のち)に生まれん者は前(さき)を訪(とぶら)え」の言葉を引用されます。私達の以前に真宗の教えを頷(うなず)き、それを日常の生活の中で自分の言葉として語っていた父祖の語りが、いま血の中に生きて働き導いていてくれているのだと感じさせられたのでした。土徳(どとく)という言葉も このような働きなのかと思いました。
 今月の言葉は福井市で開業医をしておられた米沢英雄先生の著書『信とは何か』(1976 年 柏樹社(はくじゅしゃ))からです。「浄土真宗に帰しているからこそ、真実の信がない、ということが分かるのである。仏に会うているからこそ、自分は悪人だということがわかるんです。」(41p)というのが一つの文節です。
 信とは、自己の 本当の姿 を 真実が持っている働き によって知らしてもらったという 頷き なのでしょう。深く自己を知らしてくださる働き によって、自分の本当の姿に気づき それを受け取る ということでないでしょうか。伝統的な教学の言葉で言えば、「二種深信」でしょう。したがって、その二つの働き は 休むこと無く働き続ける働き です。健康な時も病む時も、若い時にも老年になっても、気づき続かせてくれて、さらに新しい気づきを与えてくれるのでしょう。

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