2019年 8月号 名号という如来の名告り、如来の呼びかけは、当然、そのなかに応答が求められております。それは一方的に名告り呼びかけるのではなくて、自ら我と名告り、汝と呼びかけることを通して、汝からの応答、返事を待ち続けておるものです。

幡谷 明 「共生の大地」より

  幡谷明先生は、私が大谷大学に入学したときに一年間生活させてもらった学生寮の寮監をしておられました。昭和3年のお生まれですから当時の先生は三十代前半でした。その時から ですから なんと五十年以上も育ていただいている先生です。ご専門は曇鸞大師の『浄土論註』です。

 「お寺で開かれる法座でお念仏の声が聞こえなくなっている」とか「本山の報恩講でお念仏の声が聞かれなくなった」ということを聞くようになってから、かなりの月日がたっています。これを「時代の変化」と表現されることがあります。時代の変化とは実は生きている人間の生活の中味の変化なのでしょうね。お寺や本山でお念仏の声が聞こえない ということは、実は 仏様の名告りが聞こえていない生活 を 私たちがしている ということなのでしょう。幡谷先生は「如来の呼びかけ は 当然 その中に 応答 が求められております」と言っておられます。この仏の呼びかけについて「如来の真実が道となって我々の上に到達し、そして、それによって我々は真実に出遇っていく。その道となるものが名号です。仏の呼びかけとしての、御名の はたらきです。名は名告りということですから、言葉を超えた仏 が 言葉 となって我々の上に名告り現れたもう。曽我量深先生が「念仏とは ことばにまでなってくださった生きた如来である」とおっしゃった」と語られた後に続いているのが巻頭の「名号という如来の名告り、如来の呼びかけは、当然、そのなかに応答がもとめられております。それは一方的に名告り呼びかけるのではなくて、自ら 我 と名告り、汝 と呼びかけることを通して、次からの応答、返事を待ち続けておるものです」(60 頁)という文章からなっています。

 私達は 返事を待ち続けておられる如来の呼びかけ が聞けなくなっているのですね。待ち続けていてくださることに気がつかないのですね。しかし、その待ち続けられていることに気づくということは 難解な理論 なのでしょうか。「真宗のおしえは難しくて よくわからない」と言われることがあります。しかし、「待ち続けていて下さる」ということは 理論的に解釈すべきことがら なのでしょうか。それこそ「三つ子でも わかる」ことで 理性や知性で解釈すべきことがら ではないのではないでしょうか。もっと別の聞き取ることができる場所があるのでしょう。それは人間の素直な感情、様々な知識や予断や偏見の混じっていない幼子のような心 と言うより他に たとえようがありません。「愚に帰る」という言葉がありますが、愚とは根源的な人間の姿、人間の本当の姿ということではないでしょうか。仏の呼びかけが聞こえる唯一のチャンネルといえば わかりやすいでしょうか。仏の呼びかけという周波数を受信することができる唯一の受信機が 人間の心の中 にあって 宗教心ということができるでしょう。伝統的には信心といわれてきたのでしょうが、仏の呼びかけを聞き取り「ハイ」 と返事ができることなのでしょう。

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