2020年 1月号 なむあみだぶつを、うることわ、なむあみだぶつ の なせるなり。

浅原才一 「妙好人浅原才一の歌」より

 2020年、令和2年と年が あらたまりました。あらたまり とは「改まり」と書くのが普通ですが「新たまり」でもあるでしょう。これが自分だという入れ物 = 殻(から) に執着せずに、古いカラを脱いでいき 新しい自分になっていく ということでありたいなーと思考しております。思考と同音の愚行(ぐこう)ということがありますけどね。娑婆に滞在していると、だんだん古くなっていくのは身体ですが、精神の方は脱皮してどんどん新しくなる ということができないものでしょうか。老人であっても新しい気づき、新しい頷(うなず)きの世界を持つということは可能なことではないかと思っております。
 今年最初の「今月の言葉」は妙好人(みょうこうにん)として知られている浅原才一さんの言葉です。出典は「定本 妙好人 浅原才一の歌」全 楠(くすのき)恭(きょう)編 法蔵館 昭和63年刊からです。(第2ノート 42p)

 妙好人として知られている浅原才一さんは嘉永(かえい)3年(1850)に現在の島根県大田市温泉津町に生まれ、昭和7年(1932)に83歳で亡くなった方です。若い頃から船大工として働いていましたが1904年(明治37年)、郷里の小浜で下駄職人に転じて 小浜に住み始めます。そして、60代の中ころから下駄を作るときにできたカンナ屑(くず)に ふと 心に うかんできた言葉を書きとめて、仕事を終えたあとでノートに清書されたものが膨大な量で残されていたのです。鈴木大拙(だいせつ)先生によってそれらの言葉が世に紹介されてから妙好人として知られるようになったのです。
 今月の巻頭言(かんとうげん)の「なむあみだぶつを、うる(得る)ことわ、なむあみだぶつのなせるなり」からは 親鸞聖人の「正像末(しょうぞうまつ)和讃」の「智慧(ちえ)の念仏うることは法蔵(ほうぞう)願力(がんりき)のなせるなり 信心の智慧(ちえ)なかりせば いかでか涅槃(ねはん)をさとらまし」が思い浮かんでくるでしょう。「智慧(ちえ)の念仏うることは法蔵(ほうぞう)願力(がんりき)のなせるなり」を そのまま才一さんの言葉で表現すれば「なむあみだぶつを、うる(得る)ことわ、なむあみだぶつのなせるなり」なのでしょう。『歎異抄(たんにしょう)』六章にある「如来より たまわりたる信心」という言葉も うかんできます。
 こんな人が おられます。熱心に法(ほう)を求めて居るのに、なぜか他人に馴染めず、独り理論的に聖教類に向き合っているのです。自分の努力で仏法を学ぼうと真剣で真面目なのですが、自分の努力が中心にあって「なむあみだぶつを、うる(得る)ことも、なむあみだぶつ の なせるなり」とか「智慧の念仏うることは法蔵願力のなせるなり」ということが頷(うなず)けないタイプです。私の上に はたらいて下さっている仏さま には出遇うことができないのです。この才一さんの言葉は浄土真宗とはどのような教えかを端的に言い尽くしています。『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』で「浄土真宗とは二種の回向」とおさえられています。私達は「南無阿弥陀仏に呼びかけられて南無阿弥陀仏に目覚めるのです」呼びかけ があるから 目覚め があるのです。私達の懸命の不眠不休の努力であっても自分の力に立つ限り 目覚め にならないということがあるのです。どうしてでしょうか。それは私達が真剣に真面目に努力する ということが「わがみをたのみ、わがこころをたのむ、わがちからをはげみ、わが さまざまの善根を たのむひとなり」『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』であって、そこでは 南無阿弥陀仏 が 我が身の上 で 働いていてくださる事実 に気づけないまま 感動も 感謝も 恩徳にも めざめないまま終わっていくのです。

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