2020年 10月号 生きるということは、自分の思い通りになることを生きるというのではありません。

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祖父江文宏 

  10月となりました。10月1日は中秋の名月でした。夜に入って空を見上げましたが雲が多くて今年は 名月との ご縁 がないのかと思ったのですが、10時頃に窓の外が明るいので空を見上げてみますと冴え冴えとした月の姿がありました。2日は「十六夜(いざよい)」ですが 実は今年は2日の方が月は丸いのだ とネットにありました。しかし、老眼には違いを見分けることはできませんでした。私達は月の美しさに感動できることを「月見をする」と言ってきました。月見団子やススキの穂を供えて月が昇るのを待つ ということをしてきたのです。クレーターまで写っている写真をフェイスブックに投稿したところ福知山の友人が「私も福知山で眺めました!私の子供の頃は祖母がお天道様やお月様を見上げる度に手を合わせていました。昨夜、懐かしく思い出しました!」と書き込みをしてくれました。そんなに昔のことでもない私達の日常生活の中で、「お天道様」とか「お月様」と敬語を使い、手まで合わせる人が存在していたこを教えてもらいました。とても豊かなこころの世界が私達の子供の頃には庶民生活のなかにあったことを思い起こさせてくれました。(傍点筆者)
 今月の言葉は名古屋の養護施設 暁学園の園長さんとして知られる祖父江(そふえ)文宏(ふみひろ)さんの『悲しみに身を添わせて』東本願寺出版部からです。1940年に生まれられ2002年に亡くなられました。
 この言葉は「間質性肺炎」という肺の細胞が死んでいく病気の身体で 酸素ボンベを身につけて 車椅子に乗って 名古屋にあります同朋大学の新入生のために講演されたときのものです。このときには祖父江さんは 余命僅か ということを「85%ぐらいの肺が死んでいるのです。あと15%ぐらいの肺で呼吸をしています」と語っておられますが、そんな身体の状態の中で若い大学生達に語り残そうとした言葉なのです。「生きるということは、自分の思い通りになることを生きる というのではありません。思い通りにならないと言うことがはっきりとわかることです。」(42p)と語っておられます。しかし、その思い通りにならない生 を このようにも語られています。「私はこの病気になった
ときに、生きてきた ということは どういうことだったのか。どうしても問わざるをえませんでした。その時に、私の生きて来た確証は いのちに出会ってきた という事実しかありませんでした。誰かと共にしか私はいませんでした。そのことが非常に大きな驚きでした。そのことによって私は安心を得ました。私は孤立した私ではなく、人々の関係、あるいは いのちとの関係の中で私であった。そう思いました。つまり、それは出会いということです。」(40p)と、そして「出会い」とは「偶然出会ったんだと、そう自分に言い聞かせてきました。しかし、違いますね。無量の数の中で、やがて私は死にます。間違い無しに、おそらく 今日出会ったあなた と、再び会えるかどうか わかりません。おそらく あなたたちが二期生になるとき 私は生きていることはないでしょう。つまり、人は死すべきものです。限りある いのち を生きるのです。」(41p)と。そうですね。目が覚めた今朝 は 二度とない今朝 です。たまわった今朝 に 出会えたのです。
 賜った今朝 が求めていることは「命の真実に目覚めよ」ということでないでしょうか。

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