2020年 4月号 老いが身の あわれを誰に 語らまし 杖を忘れて 帰る夕暮

良寛

 今年は3月下旬にサクラが咲き始めました。4月に入って世間の話題は専ら新型コロナウイルスの感染者数の増加です。マスクが店頭から無くなって久しくなりました。しばらくの間はトイレットペーパーやキッチンペーパーもなくなっていました。デマに怯えて買い占めに走ったのです。富山県は新型ウイルスの感染者数は3月29日までゼロでした。しかし、マスクは店の棚には有りません。アルコール消毒液も姿を見ません。我が家は、私の花粉症がひどいので昨年の使い残しが箱ごと残っていました。いざという時の分ぐらいのストックはあります。この新型ウイルスは若者には強い症状は出ないで老人はダメージが大きいと言われましたが、若者にも、また赤ちゃんにまで死者は出ているようです。3月末の土日の休日は外出を控えて欲しい という、東京都や政府の要請が有りましたが、テレビの取材の中での若者達は「遊びたいから外出する」「俺たちには普通のインフルエンザと変わらないんだ」と要請は無視すると答えていました。そんな中で3月31日に富山県の感染者第1号が出たと発表されましたが4月2日にはもう8例となっています。感染者の職業が看護師、保育士、介護関係者(ケアマネージャ)などなので 広がり が心配です。
 感染に要注意の後期高齢者である我が身であることよ と思ったときに思い出したのが良寛さんの歌でした。「老いが身の あわれを誰に 語らまし 杖を忘れて 帰る夕暮」老いを嘆いているようですが、どこか そんな風になっている我が身 を 苦笑して受け取っている良寛さん がいます。前言葉に「竹森の星彦右衛門方へ杖を忘れて」とあります。杖を忘れるぐらいですから まだ それほど足が弱ってはいないのでしょうが、歩いている間に足が疲れてきて、「あー杖を忘れてきたのだ」と気づいたのでしょう。とうとう こんな者になってしまったなー という、あきれ顔の良寛さんですが 杖を取りに帰る という気にもなれないほどの距離 を 歩いてしまっていたのでしょうね。『執持鈔(しゅうじしょう)』という覚如上人の書物に「死の縁、無量なり。病におかされて死する者あり。剣(つるぎ)にあたりて死するものあり。水におぼれて死するものあり。火にやけて死するものあり。乃至、寝死(しんし)するものあり。酒狂(しゅきょう)して死する たぐいあり」真宗聖典647pという言葉があります。同じ内容で『口伝鈔(くでんしょう)』真宗聖典669p・675pにもあります。新型コロナウイルスの流行の中で 自分の死に方 は 自分では決められない という事実を知らされています。豪華観光船で船旅を楽しむはずの計画が思いもかけぬ苦界の体験に転じてしまった人が700人以上おられました。亡くなった人は10人です。親鸞聖人88才の時のお手紙に「なによりも、去年(こぞ)今年、老少男女(ろうしょうなんにょ)おおくの人びとの死に あいて候(そうろ)うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし生死(じょうじ)無常(むじょう)のことわり、くわしく如来の説きおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。まず善信(ぜんしん)(親鸞(しんらん))が身には、臨終の善悪(ぜんまく)をば もうさず。信心決定(けつじょう)のひと は、うたがいなければ、正定聚(しょうじょうしゅ)に住(じゅう)することにて候(そうろ)うなり。(何よりも、去年から今年にかけて、老若男女を問わず多くの人々が亡くなったことは、本当に悲しいことです。けれども、命あるものは必ず死ぬ という 無常の道理 は、すでに釈尊が詳しくお説きになっているのですから、驚かれるようなことではありません。わたし自身としては、どのような臨終を迎えようとも その善し悪しは 問題になりません。信心が定まった人は、本願を疑う心がないので正定聚(しょうじょうしゅ)の位(くらい)(必ず浄土に往生する ともがら)に定まっているのです。)」真宗聖典603p『末燈鈔(まっとうしょう)』と記されています。善信(ぜんしん)と名告っておられるのですから、大切なことを伝えようとしておられるのです。それは、命の事実 を知らしてくださっているのでしょう。私達のコロナへの関心は 実は 怯え でしかなかったのですね。どんなに怯えても「死の縁 無量」でした。「生死無常」だったのです。こちらは杖を忘れていても 死のほうは忘れてくれません。私達はコロナウイルスに怯え 浮き足立っていますが、実は 生きている命 は 死ななければならない 生の事実 を知らされているのでした。

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