2020年 5月号 人間が惨めさと呼ぶ「獣において自然なこと」とは なんでしょう。それは「死ぬ」ということです。

門脇 健 角川新書「死ぬのは僕らだ」より

 新型コロナウイルスは3月から日本列島を混乱させています。富山県は3月の29日までは感染者ゼロでしたが3月30日に京都から感染者が入ってきました。すると、まるで待っていたかのように別ルートの感染者が続出してクラスターが出来て急激に感染者数が増加しました。そんな中で政府主導で感染の拡大を防ぐための「緊急事態宣言」が行われ、企業活動や行動の制限が行われました。大型連休中は自宅に居るように と呼びかけが続けられていました。
 このウイルスに感染すると高齢者や持病のある者は死亡する確率が高くなる と当初から報道されていました。私などは高齢で持病がありますから「おまえ危ないぞ!」と言われているのでしょうが、人口の少ない空気の綺麗な田舎町に住んでいますと緊張感も わいてきません。「凡夫に死の縁まちまちなり」(口伝鈔)が人間の生の事実だと書いたりしてきましたが、あらためて「人間の生と死」が問われてきているのではないだろうか と考えさせられています。
 今月の言葉は大谷大学の哲学科の教授だった門脇健先生の 哲学入門『死ぬのは僕らだ』‐私は いかに死に向き合うべきか‐角川SSC新書 2013年 からです。門脇先生は私が大谷大学におりました時に哲学の教授であられたのですが親しくお話しさせていただく機会はありませんでした。コロナが この先生の書名を思い出させてくれ読み直したのですが 実に面白かったのです。
 現在の日本国民の生活はコロナウイルスに感染しないかビクビクしたものです。我が田舎町のスーパーに食材を買いに行きましても店内の客 全員がマスク姿です。私たちが手に入れることが可能な使い捨てマスクではウイルスの侵入は防ぐ事は出来ないはずですが 気の弱い私 も 長いものには巻かれろ!で マスクをするようになりましたが、しばしば忘れて行って 白い目で見られております。
 さて門脇先生は 佐野洋子さんの『神も仏もありませぬ』という本の中の言葉とパスカルの言葉を引用しておられます。実は巻頭の言葉はパスカルの「われわれは、獣(けもの)においては自然なことを、人間においては惨(みじ)めさと呼ぶ」(『パンセ』405)という言葉を解説しているものです。「人間が惨めさと呼ぶ「獣において自然なこと」とは何でしょう。それは死ぬ ということです。うまれてきた獣、つまり動物にとって、「死ぬ」ということは「自然なこと」です。(142頁)と書かれた後に 佐野洋子さんの『神も仏もありませぬ』からの引用があります。佐野さんの愛猫フネに癌が発見されてからの文章です。「本当にあと1週間なのか。もしかしたら、今 そのまんま死んでしまっても不思議はないのか。苦しいのか。痛いのか。ガンだ ガンだ と大さわぎしないで、ただ じっと静かにしている。畜生とは何と偉いものだろう。時々そっと眼を開くと、遠く孤独な目をして、またそっと目を閉じる。静かな諦念(ていねん) が その目にあった。人間は何とみっともないものだろう。じっと動かないフネを見ていると、厳粛な気持になり、九キロのタヌキ猫を私は尊敬せずにいられなかった。」(筑摩書房 52頁)
 こんな文章を読んできますと、あらためてコロナ禍から いま何が問われているのかを考えさせられます。感染者が何人増えたか、自宅待機の不満とか、自分が感染しないかという不安だけでは動物以下です。死ぬ定めの命 が いま 生きている という所にあらためて立って、生と死との 二重構造の生 を 生きている ということに あらためて向きあえ という 促しのなか に 身を置いているのではないでしょうか。

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