2021年 12月号 再びは通らぬ 一度きりの 尊き道を いま あるいている

榎本栄一 「難度海」 

 とうとう今年2021年のカレンダーも一枚のみ、今月分だけになってしまいました。「師走」という月名には慌ただしさを感じさせられます。老人にとっては一日一日が名残惜しく、大切なはずなのですが、そのような視点を失ったまま心落ち着かず、あっと言う間に終わる日々を送っています。11月には、なぜか全国規模でコロナの感染拡大に突然ブレーキが掛かりました。富山県は23日間感染者ゼロの日がつづいていましたが南砺市で1名の感染者が出てしまって感染者ゼロが途切れましたが、その翌日にはまたゼロに戻っています。

 巻頭の榎本栄一さんの詩を口ずさんでみると『大無量寿経』にある「人、世間の愛欲の中にありて、独(ひと)り生(しょう)じ独(ひと)り死(し)し独(ひと)り去(さ)り独(ひと)り来(きた)りて、行(ぎょう)に当(あた)り苦楽の地に至り趣(おもむ)く。身、自(みずか)らこれを当(う)くるに、有(たれ)も代わる者なし」聖典p60 と言う言葉がうかんできます。漢文では「人在世間 愛欲之中、独生独死 独去独来 当行至趣 苦楽之地。身自当之、無有代者。」となります。私たちは最後には独りで この世をしまっていかねばならないことを、あらためて思わされます。11月25日の拙寺の定例会に参詣いただいた皆さんと映画「いのちの停車場」のDVDを鑑賞しました。映画から編集されて短くなっている
ため少し解りにくいように感じました。「いのちの停車場」ですが、この今生きている世界を「停車場」という言葉で表現しようとしています。ここは「停車場」ですからやがて出ていかねばならない場所なのです。全編が吉永小百合さんの演ずる女性の訪問医が見送らねばならなかった患者との別れ で構成されています。DVDを見終わって私のこころに浮かんできたのは、人は独りで人生の終わりを迎えなければならない。「独生独死 独去独来」で「だれも代わるものなし」という『大無量寿経』の言葉でした。そして、たった独りで迎えなければならない人生の終わりですが、決してゼロなのではなくて「南無阿弥陀仏」が そこにある。〈まします〉のだということが思われてきたのです。如来の本願は『無量寿経』では四十八箇条で説かれていますが48も有るのでは無い。実は「欲生我国(よくしょうがこく)」の語につきる と教えてくださったのは曽我量深先生です。★参考『大無量寿経の念仏往生の本願の意義』月愛苑叢書 
 また、「だれにでも、どこにいても、いつでも、悲しい場合でもうれしい場合でも、たやすく自由に仏を念ずることができる」と教えてくださっています。『曽我量深選集』4 私などは、どんな姿で臨終を迎えるのか判りませんが、人間の言葉にまでなって私たちのところに、その願い(本願)を知らせようとしてくださり、言葉にまでなってくださった仏様の願いは そこにも届いていてくださるのでしょう。「再び は通らぬ 一度きりの 尊き道を いま あるいている」その尊さとは、愚痴ばかりで終わりかねない人生を尊い願いにふれ、目を開いていただき、尊い願いを受け取って歩んでいく道にしていただいているから尊いのでしょう。いらいら や、くよくよ ばかりの日暮らしではなく、その中に届いてくださっている願いを受け取っていける人生にしていただけたことは実に有りがたいことです。 

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