米沢英雄
大雪になった年末と年始でした。35年ぶりの大雪だと新聞、テレビで報じられていました。幸いにも本堂の屋根雪下ろしは、しなくてならない直前で止んでくれました。若かりし頃に屋根雪下ろしをしているときに身に知らされたのは人間の力の小さいことです。そして、屋根雪は人力でなければ下ろせないのですから、ただ黙々と身を動かさなければなりません。どんなに達者でも口では下ろせないのです。北陸人の無口で粘り強いという特徴は雪を相手にしなければならないことによって作られたものだと感じておりました。大雪のため北陸高速道で走行不能となった車の列が報道されていました。わが町、南砺サービスインター付近で200台が走行不能となり、トラックがSOSのハタを振っている影像が流されていました。昨年の春からネットでは毎日各都道府県のコロナ感染者数が報じられています。数字というのは三桁でも四桁でも驚かされはしますが人間の悲しみや苦しみは伝わってきません。非情なものです。東京都が二千人を超えた日が三日間有りましたが、そうなっても繁華街から人の姿が消えることは無かったようです。非常事態宣言という物々しい状態の中ですが都心部の人出は減らないようです。「不要不急な外出はしないで下さい」という行政からの要請が有りますが、それを無視して出歩かずにおられないものが人間の内部にあるようです。街でインタビューされた若者の弁を聞いていると、ひとりで自宅や自室で過ごすことが苦痛のようです。苦痛と言うよりも不安なのではないのでしょうか。感染する可能性があっても出歩かずにいられないのは なぜなのでしょうか。ひとりに耐えられないのでしょうね。人間の姿は「独(どく)生(しょう)独(どく)死(し) 独(どっ)去(こ)独(どく)来(らい)」であると『大無量寿経』に説かれています(下巻 真宗聖典60頁)。その事実から目をそらそうとしているのが、大都会の喧噪の中で その命の事実を見ないでおこう、忘れていよう、としている老若男女なのではないのでしょうか。曽我量深(そがりょうじん)先生が念仏の世界を「お念仏は一人でいても淋しくない。一人でいれば静かで良い。大勢いれば賑やかでよい。ところが人間の了見が間違っているというと我執(がしゅう)が募(つの)っている。大勢寄ると うるさくてたまらん。一人でいると淋しくてたまらん」と言っておられたことを思い出します。(『真宗の眼目』法蔵館)
米沢英雄先生は「本願の念仏は、あくまでも、私が一人で生きられる力をあたえて下さるものです」(「米沢英雄著作集一巻」124頁 柏樹社(はくじゅしゃ))と言っておられます。この言葉が収められている短文には「苦海をわたる」という題がつけられています。「あくまでも、私が一人で生きられる力をあたえて下さるものです」という表現に目を向けていただきたいと思います。どこを生きるのかと言えば 苦海を なのです。苦海を暮らしよく変えてもらうのではないのです。私達の思いの 暮らしよい とは、よく見てみると私と言う個人の欲を満足させる世界ですから決して長続きしません。私達の経験している時間は老病死(ろうびょうし)に出会う時間です。本願の念仏とは病の時は病苦の中で、老いた時には老苦の中を生きていく力を与えて下さるのだと教えてくださっております。
㊟米沢英雄先生は福井市のお医者さんでした。