曽我量深
今年も はや半分が過ぎてしまいました。時間の流れが年をかさねるにつれて次第に早くなっているように感じます。お迎えの時も どんどん近づいているのですがコロナの感染者数の増減とオリンピックの行方(ゆくえ)に気をとられてしまって大切なことに気づかないままです。
NHKの「アサ一(いち)」で出演していた南杏子さんという女医さんの「いのちの停車場」(幻冬舎文庫)という本が採り上げられていたのに興味を感じて読み始めたのですが一気に読んでしまいました。私たちは、現在 この世という停車場におりますが そこは出発しなければならない所なのです。現在居るところが旅立たねばならない所だ ということに気づかないままでいるのです。本の内容は何人かの旅だっていく人々の姿が医師として見送った様が詳細に えがかれています。吉永小百合さんが女医さん役で出演している映画も舞台が金沢なので、富山の私たちにも見たことのある風景が出てきます。高岡市の上映館の観客は旅立たねばならないことを どこかで考えはじめたような年齢層の人ばかりでした。
「越中門徒」という言葉があります。越中の地に長い年月伝承されている人間の精神世界があることを顕(あらわ)しています。「真宗」という言葉であらわされる人間の精神生活があったのです。急速な社会変化のなかで生き方に変化がおこってきて、具体的に言えば何処の家にも有った仏壇も合掌もお寺との関係も生活のなかで存在感が無くなってきているのです。かつて親から ことあるごとに子に伝えられた言葉は「聞法せんな あかんぞ」だった。と現在お寺に足を運んでおられる方たちに共通している親の願いの言葉があったのでした。
親鸞聖人の大切にされた言葉に「聞思(もんし)」があります。『教行信証』では「誠(まこと)なるかなや、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)、超世(ちょうせ)希有(けう)の正法(しょうぼう)、聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ」(総序 p150)とありますが「聞思」することをためらうな といっておられます。「聞」について親鸞聖人は「『経(きょう)』に「聞(もん)」と言うは、衆生、仏願(ぶつがん)の生起(しょうき)・本末(ほんまつ)を聞きて疑心(ぎしん)あることなし。これを「聞(もん)」と曰(い)うなり。」(信巻p240)と書いておられます。曽我先生は このことを「如来の本願の生起(しょうき)本末(ほんまつ)を・・如来が だれのために どういうわけで本願を起こされたか、また その本願をどのようにして修行せられたか、それらのことが『大無量寿経』の上巻に物語のような形で述べてある」(弥生書房『愚禿親鸞』p30)) と言っておられます。蓮如上人は「われらが往生すべき他力の信心という いわれ をしらずは、いたずらごとなり。」(御文1-13 p773)と言われました。教えを聞くとは記憶することでは無いですね。記憶ということがあやしくなってきて改めて思います。「聞(もん)は身(み)に たもち、思(し)は心(こころ)に たもつ」からは「その かご を水につけよ」(聞書89 p871)という蓮如上人のおおせ があらためて聞こえてきます。
※『蓮如上人御一代記聞書 89』現代語訳
一 ある人が自分の心のありのままを表して、
「私の心は まるで籠の中に水を入れたようなもので、仏法を聴聞する御座敷(おざしき)にいるときには、ありがたくも尊くも思っているのですが、その場所を退くと、すぐに もとの心に戻ってしまうのです」
と申された
ところ、蓮如上人は、「その籠ごと水の中に浸けておくがよい」と言われました。籠に水を入れたのでは水は漏れてしまうから、わが身わが心という籠 を常に仏法の水の中に浸しておくように諭されたのであります。
「すべて何事も、もとをただせば信心のないことから起こる、つまり信心がないから悪いのである。善知識が悪い と言われるのは、信心のないことを悪い と指摘されるのである」と、仰(おお)せられました。