2021年 8月号 やり直しではない。生き直しをしないといけない時代がはじまっているのです。

梶原敬一 

  オリンピックが始まりました。同時にコロナウイルスの感染が大都市中心に爆発的に増えています。オリンピックの終了時には どうなっているでしょうか。ところが、日本選手の活躍が素晴らしいのでオリンピック強行への批判が どこかで立ち消えに
なってしまいそうです。理屈は どのようにでも つけられるものだと政府関係者や東京都知事の弁を聞くと思われてきます。かなり以前ですが「平気で嘘をつく人たち」 (スコット・ペック著 草思社)という本がよく読まれている時代があったことを
思い出しています。

 今月の言葉は梶原敬一さん(1955年生まれ)という小児科医(姫路医療センター)で大谷派の僧籍をお持ちで、大谷派の教学研究所の嘱託(しょくたく)研究員でもある方の『生きる力(ちから)』(大谷派出版部2006年発行)という本からです。

 最近強く感じていることがあります。それは中味の無い、空虚なことばが巷(ちまた)に溢(あふ)れかえっている といことです。それこそ平気でウソをつく人たちで溢れかえっているのではないかと思わされているのです。中味のない、真実(まこと)の無いことばが氾濫(はんらん)しているのです。

 梶原先生の書物には「お念仏によって はじまる言葉があります。「南無阿弥陀仏」からはじまる言葉でなければならない。それは「願生(がんしょう)」ということ、人間というものの言葉を、私とあなたの間にある言葉としてはじめることです。」(p64)とあります。 
 80歳を目前にするまでの年月を生きさせていただいて実感しておりますのは 人生とは老病死していくものだ ということです。それは お釈迦様の最初のお覚りの人生とは四苦 つまり「生(しょう)老病死」することであるということを「おっしゃるとおりです」と頷くことができるようになったということです。梶原先生は このようにも言われます「もっとも根源の言葉 これはブーバーという哲学者の言葉ですが『我と汝』という本のなかでI(イ)ch(ッヒ) und(ウント) Du(ドウ)という、私とあなたが根源の言葉としてあるだろうということを言われています。でもそれは、私にとっては お念仏です。私とあなたというところではなくて、「南無阿弥陀仏」から はじまる言葉です。その言葉を持ってはじめて、人間の世界が一人の世界でなく、私たちが言っている意味での、歴史を背負った存在、(中略)亡くなられた藤元正樹先生が言われたことですが、「私たちは人類の一人として いきているのではない。一人の人類となって生きるのだ」と。そういうことが おこってくると思います。見た目には変わらないかもしれませんが、生きている世界が たしかに変わる。」(p65)」と言っておられます。
 いまお寺に足を運んで来られる方が減り続けています。それは人間にとって最も大切な言葉に出遇わないまま長生きしていくことだと思います。そこでは病も死もうけとれないままの時間が過ぎていく人生が有るだけだと思います。「南無阿弥陀仏に出遇わない人生は虚(むな)しいのだぞ」と私たちの家の1軒々々に伝えられた言葉があったのではないでしょうか。虚しいのは「帰命」と「願生(がんしょう)」ということがないままで終わる人生だからです。 

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