2021年 9月号 浄土への願いが念仏を称えさせるのです。

金子大栄 『教行信証のこころ』

 オリンピックが終わりました。日本選手の活躍がありました。しかしコロナの感染者数も激増しました。医療を必要とする時は いつでも病院で受診ができると思っておりましたが、「医療破壊」がおこってしまい、自宅で冷たくなっている事になりかねないようです。

 ほんの数年前まで「傘寿(さんじゅ)」つまり80歳は他人ごとだと思っていたのですが、もし来年まで この娑婆にいることができましたら我が身のことになってしまいます。そういう年齢になってくると友人知人の訃報をしばしば聞くということになりました。それは、お前の人生の行き着くところを忘れてはいないのか?と尋ねてくれているように思えるのです。忘れている というか 目をそらしているのを「オイオイ」と呼び覚ましてくるのであります。不思議なことですが目をそらしていたい、忘れていたいという思いの底には同時に 問わずにおれない という思いも同居しております。この思いは私たち自身の中に在りながら、どこか私に問いかけてくる問いというように、私ではないところから私に問いかけてくる問い というふうに感じられるのです。このような「私以外のところからの私への問い」というところに個人的な問いであるようで普遍的な問い、誰でもが問われている問い といえるものがあるように思えます。金子先生の言葉に たずねてみたいと思います。

 「浄土へいく という願いが念仏を申させるのである・・・。念仏を申せば浄土へいくということなのですけれども、その裏を考えれば、浄土への願いが念仏を称えさせるのであります。それは、親鸞聖人から申しますと、浄土からの お招きなのである」『真宗入門 教行信証のこころ』同朋選書3 東本願寺出版部 p87とあります。

 「浄土とは なにか」「念仏とは なにか」それをはっきりさせないといけない。ということが我々の頭のほうに、というのか 脳みそ のほうにあるように思います。でも残り少ない という命の実感の中で言いますと、どうも「浄土からの お招き」がピッタリする言葉なのです。「浄土」といいましても、本当に帰って行きたいところ。別の文字であらわしますと「還(かえ)る」という文字がありますが、どうも「戻」っていく」という感覚が このごろ高齢化した自分に有るように思えるのです。先生は次のようにも言っておられます。「何か道というものがあって、みな同じところに帰するのである。ということではないでしょうか」(同前)
 「お浄土がある とか ないとか、阿弥陀仏がどうの いうことよりも、お念仏がまず第一なのではないでしょうか。そして お念仏の上に本願の心を知らしていただくのであります。しかれば念仏こそは絶望しても断念することのできない人生の根本感情を表現するものといわねばなりません。そのようにして一生を送る人の行き着く先を、涅槃界(ねはんがい)ともいい、浄土ともいうのであります」(P132)と。また このようにも言われます。「浄土がある と わかってから信心しょう というのが、雑行(ぞうぎょう)なのでしょう」(p135)とありますが、現在蔓延(まんえん)している自己肯定型の生き方を我が身におこってくる「老」が「何にもならんこと」だと教えてくれております。「帰去来(いざ いなん)」という言葉が 身に親しい言葉になってきました。

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