2021年 1月号 長き夜や心の鬼が身を責める

山上憶良(やまのうえのおくら)(万葉集) 

 11月の後半からコロナ感染者が急増し11月28日には東京の感染者数は一日の感染者が561人した。気候の方も変でした。11月の後半だというのに夏日になって南砺市でも最高気温が26.5度でした。なにか常ならぬ状況で師走となりました。
 高岡市は大伴家持(おおとものやかもち)と関係が深く、古城公園で万葉集全巻が連続三昼夜にわたり、2,000人を超える人々によって朗唱されることで知られていますが、今月の言葉は万葉歌人として知られている山上憶良(やまのうえのおくら)の言葉です。憶良(おくら)は660-733?(斉明6-天平5?)702年に遣唐使の書記官として唐に2年滞在していますが 帰国後に伯耆(ほうき)の守(かみ)、筑前の守(かみ)等を歴任しています。高校の日本史の教科書にでていた「貧窮(ひんきゅう)問答歌」が強く印象に のこっています。万葉集には76首が集められています。

 11月の後半になりますと年賀欠礼の挨拶状を受け取ります。仲の良かった高校の同級生の訃報がありました。78歳は そんな年齢です。行政用語の後期高齢者になっています。もっとも、本人は「高貴高齢者じゃー」と思っているのですが、だれも認めてくれません。「後期」とは何を意味するのでしょうか。私流に申しますと「お迎えが近い者になっている」ということだと思っています。お迎えが近い という事実を見つめれば、なにかが見えて こなければならないのではないか と思うのです。それは、もう限られている命の意味、この世に人間として生まれて生きてきたことの意味 を今のうちに見いださないと、もう二度と問い直すことが出来ない。そのうちが無いのです。今だけしか問う機会はないのです。仏教は「老苦」ということを説きます。「老苦」は老だけに とどまりません。「病苦」も一緒に味わわなければなりません。そして その上に「死苦」までが姿をあらわしてくるのです。それが、たまらないので 我が日本国民は見ないことにする、目をそらす、現実から逃げる場をあれこれ作り出そうと試みています。しかし山上憶良(やまのうえのおくら)さんは言います「生まれた以上は必ず死ぬものだということがわかる。死がもし いやなら生まれてこないに限る」と。万葉集巻5(日本古典文学全集 万葉集二 小学館113p)これは憶良(おくら)自身が病を得て「沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)」という病気になってみずからの身を嘆く散文を書いているのですが、その中にある一部分が今月の言葉です。この後に七首の歌が続きますので一部を紹介します。「年長く 病(や)みし渡れば 月累(かさ)ね 憂へ吟(さまよ)ひ ことことは 死ななと思へど 五月蠅(さばえ)なす 騒ぐ子どもを 打(う)棄(つ)てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃(も)えぬ かにかくに 思ひ煩(わずら)ひ 音(ね)のみし泣かゆ」大意は、長い間病み続けているので、いっそのこと死にたいが、騒ぐ子供をうち捨てて死ぬことも出来ない。あれこれ思い煩い声に出して泣けてくることだ。という事でしょう。では、逃げられなければ どうすればいいのでしょう。引き受けることなのでしょうね。事実を事実として認め、引き受けることです。死なねばならない事実から学ぶということが実は生の意味を本当に明らかにすることのできる唯一の立場でないでしょうか。このことから目をそらして知ることの出来る 生(せい)の意味 は 中味のない 張りぼての生(せい)でないでしょうか。

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