2021年 11月号 仏の説法を聞かなければ自分に持っている願いがわかりません。

蓬茨祖運 

 11月になりました。真宗門徒にとって11月は宗祖親鸞聖人のご命日、つまり報恩講の月です。京都の本山で七日間の報恩講が勤まります。コロナ禍以前は二十八日の坂東曲に会うために上洛する人も多かったのですが、ここ数年は足が止まっていたことでした。

 報恩講の「報恩」とは どのような意味でしょうか。今や「恩」という言葉を耳にしたり、目にすることのない社会です。そんな中で「恩に報いる」と書かれる報恩という言葉は現在では理解不能の言葉になっているのではないでしょうか。自分の要求が満たされた時に一瞬だけ悦びの気持ちが湧いてくるかも知れませんが、すぐに消えてしまいます。ためしに「古語大辞典」(小学館)を牽(ひ)いてみました。[恩]恵み。慈しみ。情け。とありました。「字通」には、「めぐみ」「いつくしむ」とあり「広辞苑」「字源」も同じ説明でした。
 しかし、辞書で調べてみても どうも はっきりしません。言葉の意味を辞書で引いてみると、また別の辞書を牽かねば理解できないような変な気がしてきました。

 本当は 仏法を聞く ということがないところでは「報恩」という言葉を本当に頷くことはできないのではないのでしょうか。仏法を聞かないままで「報恩」ということを解ろうとすることは無理なのだ と引用している蓬茨(ほうし)先生の言葉で教えられました。

 今月の言葉の出典は『蓬茨(ほうし)祖(そ)運(うん)選集』第十四巻 文栄堂 の132頁からです。「ただ念仏して」という章にある言葉です。この言葉は現在の日本社会の陥っている姿を言い当てていてくださるように思います。仏法を聞くとは、実は お釈迦様の説法を聴くことだったのでした。坊さん個人の説を聞くことではなかったのです。また親の説教や学校の先生の説教というのはあまり子供達に有効に はたらかないようです。なぜでしょうか。それは、親や教師が生きている世界が狭いからではないでしょうか。親や教師の権威というような所から
出てくる言葉では子供達の心に響くものがないでしょう。

 蓬茨先生は「われわれの心自体の中には深く願われているということがあるわけなのです。そこに仏の説法を聞いて「かの国に生まれんと願う心を発(おこ)す者は」ということが生きてくるのでございます。仏の説法を聞かなければ自分に持っている願いがわかりません。持っている ということなどに少しも気がついていないのです」と言っておられます。
 私たちの願いとは 本当に帰って行く世界に目覚めること なのでしょうね。かの国に生まれんと願う心とは「欲生我国(よくしょうがこく)」つまり「我が国に生まれんと欲(おも)え」という願いが聞こえてくることなのですが、「聞く」あるいは「聴く」という生活がなければあり得ないのでしょう。
 それは 仏様の言葉が聞こえてきた人から聞く ということ、聞法なのでしょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です