2021年 3月号 そんなに情報集めてどうするの そんなに急いで何をするの 頭はからっぽのまま

茨木のり子 

 2月13日午後11時8分ごろ、福島県沖を震源とするマグニチュード(M)7.3の地震があり、最大震度は6強が観測されたそうです。我が町の揺れは小さく、14日の朝にテレビのスイッチを入れるまで気がつきませんでした。10年前の余震とみられるようですが。東北地方に住んでおられる方が受けた精神的なショックは大きかった事でしょう。
 2月25日の定例法座に大雪で来られなかった射水市在住の高校の同級生が顔を見せてくれました。昨年亡くなった同じクラスだった友人ことを伝えました。徐々に こちら側にいる同級生が減っていっていることを話しておりました。やがて、「昔風に言うと私達は傘寿(さんじゅ)だね」と言われて、「子供の頃に75歳とか80歳という人をものすごい年寄りと見ていたけど我が身が そうなっているのだね」という会話となっていったのでした。老齢であるということを最近は 疲れる というかたちで感じやすくなりました。うーむ、これも「おのずからしからしむところ」なのだなと うなずいているのですが。
 今月の言葉は 茨木のり子さんの詩です。(1926年生まれ。2006年に亡くなった詩人です)「自分の感受性くらい 自分で まもれ ばかものよ」で結ばれている「自分の感受性くらい」という詩が よく知られていると思います。今月の言葉にさせていただいたのは「時代おくれ」という題の詩の一部です。少し部分的ですが紹介します。「車がない ワープロがない ビデオデッキがない フアックスがない パソコン インターネット 見たこともない けれど格別支障もない そんなに情報集めてどうするの そんなに急いで何をするの 頭は からっぽのまま すぐに古びるがらくたは 我が山門に入るを許さず (山門だって 木戸(きど)しかないのに)はたから見れば嘲笑(ちょうしょう)の時代遅れ けれども進んで選び取った時代遅れ もっと遅れたい 電話ひとつだって おそるべき文明の利器(りき)で ありがたがっているうちに 盗聴も自由とか 便利なものには たいてい不快な副作用が ともなう 川の真ん中に小舟を浮かべ 江戸時代のように密談しなければならない日がくるかも(以下略)」「ポケット詩集Ⅲ」童話屋 108~110頁 
 とても鋭い時代批判・文明批判だと思います。茨木さんの詩を読んでおりますと、いま現在の人間社会が何かを見失ってしまっているかに気がつかされるように思います。時代の最先端にいるつもりでいる人は、人間として最も大切なことを見失っている最先端でもあるのだと思われるのです。今や「宗教離れ」の時代と言われていますが宗教を見失っている と言い直すべきではないでしょうか。人間で有ることの一番深いところからの 根源的な問い を放り投げて、忘却しているだけなのにもかかわらず、自分は時代の最先端にいるのだと思い込んでいる人が声高に宗教無視を言い始めているように思えるのです。「ばかものよ」と言いたいですね。自分の足下が今にも崩れそうな崖っぷちなのに気づいていないのです。

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