2022年 1月号 たとえ朝咲いて夜散る花であっても、そのなかには無限のいのちがある。

金子大栄  

 新しい年2022年を迎えることができました。念頭の挨拶の定型である「昨年同様によろしくお願いします」が すなおに使用できない世界になっております。むしろ「昨年のようになってほしくないですね」と挨拶しなければならないような気分ですね。昨年はコロナ禍が田舎町の南砺市にまで及んできて毎月の定例法座と婦人会を中止にした月がありました。今年はどうなっていくのでしょうか。昨年11月ころから全国的にコロナの感染者数が減ってきましたが年末からは今度は新しいオミクロン株が国内に入り込み始めて「水際作戦」という言葉で なんとか国内に蔓延するのを食い止めようとする動きになっています。人と人が顔をあわせて語り合うことが困難になってみると紙やネットの「通信」がもつ役割をあらためて知らされております。微力の上に老化が加わっておりますが お伝えする何かを見つけて お伝えしていけたらいいなあと思うことです。よろしくお願いいたします。

 コロナ報道のなかで、ふと感じたことですが毎日のように感染者数、死亡者数、入院者数などが公表されていますが、その数字から人間の命と言うことを感じることがないまま、それを眺めている 命への感性の鈍化 が気になるようになってまいりました。

 よく知られている西行(さいぎょう)の「山家集」の「わづかなる庭の小草(こぐさ)の白露をもとめて宿る秋の夜の月」という歌や、道元禅師の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』現成考案(げんじょうこうあん)にある「全月(ぜんげつ)も弥天(みてん)も、草の露にも やどり、一滴の水にも やどる」(岩波日本思想体系『道元』上p37)の言葉に こめられているような、身近な小さな世界に写ってきている大きな世界を感じ見るような視点が失われているのではないのか という気がしております。昨年12月下旬のある日の統計ですが感染確認172万9946人、重症26人、死亡1万8391人とありますが感染者の驚き、悲しみ、重傷者の苦しみ、コロナで死ななければならなかった人の気持ちなどを数字からは同感することができなくなっているのでないでしょうか?現代人の大好きな統計というものが表すことのできない世界があることに気付かなければならないように思います。「たとえ朝咲いて夜散る花であっても、そのなかには無限のいのちがある」(『教行信証のこころ』金子大栄 同朋選書3(12月再版))50年以上前の言葉ですが響きは新鮮です。
 今年は わたしが80歳になってしまいます。しかし、80年間という年月を実感し、充実感があるかと言えばありません。ただ、アッという間です。本当の命に出遇えていないのです。私の命のなかの無限の命に出会えていない、ただ過ぎてしまった時間としてしか感じられていないのです。5歳頃に両親は「この子は あきらめなさい」とお医者さんに言われるような病気をしております。小学生頃は すぐに熱を出して学校を休んでおりました。そんな虚弱児が80歳になりそうです。しかし、その命の中にやどっている大きな命に であえないまま終わるなら人生は虚(むな)しいままの「サヨナラ」で終わります。この 小さな いのち に 呼びかけ となって はたらいていてくれている大きな命に出遇って、合わせた両手で受けたいものです。

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