2022年 2月号 ただ今の生の現実の中に自己の人生をして悔いなからしむる道をもとめなくてはならないのです。

廣瀬 杲  

 旧暦で言えば2月は如月(きさらぎ)といい 春になるのですが 新暦とは1ヶ月のずれがありますから まだまだ寒い日が続きます。天気予報は雪だるまの行列です。1月末に祖父の生家であるお寺の前坊守さんが九十歳でお亡くなりになられて、お通夜、お葬式に参らせていただきました。コロナ禍のなかですが厳粛な お葬儀が雪の舞う寒さの中でおこなわれました。 私自身が今年八十歳を迎えるということがあってのことでしょうか、これまで経験したことのない思いの中で今回の葬儀に会わせていただきました。それは我が身のこととして あなたは還らせていただく浄土 ということを ちゃんといただけているのですか? ということを前坊守さまが問うてくださっているような思いのなかで座らせていただく2日間でした。
 私たちは煩悩に突き動かされて日送りをしております。突つかれ、流されて あたふたと年月を 時間を 浪費、つまり無駄遣いして過ごして参りました。そのなかで 改めて人間の生は こうして終わっていくのだぞ と親しかった方から身をもって教えて
いただいていたのでした。

 親鸞聖人は私的なことは まったく と言っていいほど語られませんでした。唯一法然上人との出遇いが語られているだけでしょう。高僧和讃の法然章で「曠劫多生(こうごうたしょう)のあいだにも 出離(しゅつり)の強縁(ごうえん)しらざりき 本師源空いまさずは このたび むなしくすぎなまし」真宗聖典p498 と法然上人からいただいたのは なんであったか を述べておられます。
 人生に どれだけ長い時間をいただいても出離の道をしらないままであれば、その長さすべてが虚しく過ぎた時間に終わるのでしょう。自分の人生を振り返りますと虚しく過ぎた時間ばかりであることに愕然とします。それは やり直しも、取り返しもできないのです。
人生大半は むなしく過ぎた時間ばかりです。やがては人生すべてが むなしく過ぎて終わるのでしょう。廣瀬杲(たかし)先生の お若い頃の本を取り出してきて読みなおしてみました。『親鸞のおしえ』法蔵館 1963年に初版発行されています。このような言葉があります。
 「浄土真宗に遇うた ということは、なにも浄土真宗という宗旨、(中略)一宗一派ということではないのでありまして、本当の意味で自分の一生が これほど尊く価値のあるものであったか、ということに目覚め、それを通して自分の生きている人生というものを新しく確認した、ということが 真宗に遇うた ということであろうと思います。つまり自らの生涯の宗としてゆく道に目を開くことができた、これが真宗に遇うたということであろうと思います」p14 とあり、さらに「私たちは生きております。これは間違いのないことです。しかし生きておりながら、ほんとうに生きているということを、わたしたちは確認したことがあるでしょうか」p15 ご葬儀の間に聞こえていた問いはこのことだったのでしょうね。

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